細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

自我理想と意地の癒着

 昨日も昼から晩くらいまで不調。でも、気の持ちようとかポジティブシンキングや「ありのままでいいよ」とかで解決される部分とそうでない部分を感じた。
 というのは、大雑把に心というのは自分に向う部分と、他者や外部に向う部分があるのだ。だからポジティブシンキングとかでマシになる部分*1は、「自分に向う部分」であって、外部世界がキラキラ見えたりすることもありうるが、残念なことにそれは一時的なものなのだ。

 考えてみると絶対大丈夫!といえるような精神状態で生きている人はほとんどいないと感じる。いるとすれば、それは夢を見続けても一向平気な人か、ほんとに超越した人だろう。しかしほんとに超越した人だって、例えば釈迦?だって、現実の苦しみを見つめることと、その見つめるための正確な認識の条件を提示したのだと思う。

 夢によって、自分を守ることがおかしいとは思わない。僕は、自分自身をたくさん本を読み、人一倍ものがわかっていて、理想をもっていると思っている。いわばそういう自我理想、ナルシシズムがある。そうやって自分を励まし慰撫する心の働きを作ってきた。しかしそれがほぼ自分を守るために作ってきた単なるイメージであることはまちがいない。でもそれはイメージであって事実ではない。しかしそこがどうもうまくいかない。そこがこじれてる。
 そうやって、優れたもの、いやなものへの劣等感や辛さに負けないために優越していると思ってたかったんだと思う。あのいじめっ子や、いやな上司やオヤジに負けるものか!という。

 しかしある場合には僕の嫌いな人からでも学ぶことがあり、なんで嫌いなのか考えてから関係を考えたりすることもある。だからいつもいつも負けないようにしなくていいのに、なかなか意地張ってその意地が自分が前へ進むことを妨げているのである。その意地と自分の自我理想や夢が癒着しててパニックを起こすのです。

 その底には敗北したというダメージというか、そこで躓いてこたえたという記憶がある。それが自分の武器であり弱点である。力が減って、しかし現実が変わらないとき、夢とかを見て自分を慰めでもしていないと死にそうだったからだ。

 だけど、もちろん精神病になったり、失職したり、みじめだったりしたけれど、それは過ぎて行っている話だから自分の過去ログになってきてる。

 でもその過去ログというか自我理想というかそういうものがある程度、腑分けされないと自分も苦しいし回りに誤解を与え続け、みじめになる。人間の本性は「これ!」というように言いがたい。だから表現や行為によって、それを確かめ修正しながら手応えの精度を大きくしていきたい。

 たぶん自分はまずただ単に生きていくことが難しかったということの意味を考え続けているんだと思う。小説を読んでいても、介護をやっていても、それはいろんなしんどいことがありながら生きていくときにどのような具体的・抽象的な支えや転回が必要なのかという問いがあると思った。石原吉郎の語りがたさはただ言語的なものではない。ただ芸術的なものでもない。それは現実の苦しみや認識と彼の傷の合体したものであり、そこで様々な混乱や禁欲があるから、言葉として、芸術としてすごいのです。それは自分の祖父の戦争体験への問いや、自分自身の傷の語りがたさと、ある部分符合します。戦争だけでなく、言語芸術だけでなく、総合的な経験としての「言葉」を考えたいなあと思っています。しかしそれが本当にメインなのかわからないけど。

 それを具体的な場面に少しずつ接続するには今まで悔しくて意地になって動けなくなっていた心の、そこに残されている記憶や事実を梃子に現実を発見し、徐々にもはや効力を失った意地や妄想を片付けてより生きやすくしていきたい。*2

 つまりそのような自分の核や軸というものがよりクリアな姿をとれば、うれしさも困難も何倍にも感じられるかもしれないと思うのです。今の辛さはそういうところへ少しずつ近づこうとして生じていると思いたいですね(泣)

 

*1:例えば論理療法とか認知療法とかは、そういうアメ玉を食べて甘さを感じさせてやり過ごす式のものとは少しちがうだろうと思う。もちろんこれは私の誤解かもしれないが。(なぜならイメージトレーニングの効用は否定できないかもしれないからだ)やり過ごすだけではどうにもならないからだ。たぶん以下の著者が仏教の唯識の研究者であるように、苦が生じているときの認識の歪みを明らかにすることで現実への接続障害を緩和させているのだろうと思う。フランクルのロゴセラピーは勉強してない。失礼。

*2:例えばこういう言葉を思い出します。ドレイが、ドレイであることを拒否し、同時に解放の幻想を拒否すること、自分がドレイであるという自覚を抱いてドレイであること、それが「人生でいちばん苦痛な」夢からさめたときの状態である。行く道がないが行かねばならぬ、むしろ行く道がないからこそ行かなければならぬという状態である。かれは自己であることを拒否し、同時に自己以外のものであることを拒否する。それが魯迅においてある、そして魯迅そのものを成立せしめる、絶望の意味である。竹内好「近代とは何か」)いやここまでがんばることは僕には無理なんですが、思い込みや妄想に浸かり続けるとものすごく苦しいからそこはマシにしたい。