思考と気質
今日は、大変暑く、急激な気温上昇に体がついていけず、片頭痛がしたから、頭を保冷剤で冷やして寝ていた。
そうしてから風呂にはいり、夜ハンナアレントの『政治と判断』のなかの集団責任という文章を読み、思考というものに独自の非常に高い意義付けを与えるアレントの論調に、懐かしく、たのもしい感じを久々に持った。
20代で読んだときもそれに勇気付けられた。
私は考えたり、想像したりするのが好きで、生活するということはあまり得意ではない。
小さい頃から図鑑をみたり、ブロックや砂遊びをして、物思いにふけり、ぼんやりしている時に、人知れず充実を感じていた。
だから走り回って遊ぶ、友だちと走り回る、スポーツや遊びみたいのはあまり得意ではないため、それがもとで、少年時代はものすごくいじめられた。
人生のかなりの部分で、その傷はうずいていて、時折とても頑張ってみる以外は、疲れと悲哀を感じている。
自分のように心身が疲れやすいわりにはいろんなことに挑戦してきたとも思う。
それもしかし遠い時代のことのように感じるときもある。
人に関わりたいという欲求はある。
ものすごくさみしい感情が強い。
最近それは自分がいろんな否定感情を身につけたからくるある惨めさの発作のようなもので、本当は頑張ってきた部分もあるし、無理しなくていいと言い聞かせることで減ることがわかった。
あまりじたばたせず、ヨガをしたり、考えたりしていくという無理しない作戦でいこうと。
いろんな具体的な物事について、疲れてしまうということがあり、しかしそんなにあっさりと疲れてしまうということは他の人には想像を絶するようである。
ボーッとするか、なにかを考えたりこだわったりとらわれている以外、基本的に様々なことが疲れてしまう
私にあきれる人は多いだろう。
話をするのはわりかし好きで、いろいろ考えたり感じたりすることを話すのは嫌いではない。
時々強い孤独感に襲われ、共感や理解は一生得られないだろうと暗い気持ちから出てこれなくなることはかなりある。
片頭痛持ちで、心身が疲れやすく、そしてたぶん自分のペースがかなり頑ななので、人に優しくしたくてもなかなかできなくて、さみしい。