細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

チャレンジする人を静かに応援する、恩着せがましくないまなざし―【読了】松井彰彦『高校生からのゲーム理論』

 

高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)

高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)

深い見識を随所に感じさせる。

数学の苦手な私でも読める。実例を分析することを通じて、その分析は普通にいうような「本質主義的な深み」なるあいまいなものはない。つまり一見平明で限界があまりにも明瞭に思えるのだ。
しかし物事を具体的に変化させるにはなるほどこのように幾通りかの手筋を想定して、我々がどういう手詰まりに陥る羽目になるかを検証して、その上で制度や集団をデザインする必要があるのだ。そういうことを感じさせる。
つまりある限界の認識から始まっているのだ。このことはゲーム理論に思い入れのない私もわかった。この世界はたくさんのfactでできている。しかし実際に適用可能な仕組みや解は実は案外少ない。
だから勝負とか読みの問題が出てくる。あなたがプレイヤーであるならばだ。

私は将棋や囲碁やゲームが苦手だ。意地を張って力んでしまい勝てないのだ。どうしてかといつも苛立つ。だけど力んだり「意志」があるだけでは勝てない。

いやうまくいえないが、何かをやってみるために計算というか現実認識がいるのだと思う。松井氏はそれを俯瞰と呼ぶ。

逆説的なことだが人生や出来事に情熱的にしっかり没入するためには、その状況の中にいて、その状況に自分を埋め込んだままその状況を変革する条件を考えることが大事なのだ。
そこにしか道はないように思われるからだ。

この本の中で北海道東京間の航空路に参入しようとした「エア・ドゥ」の破たんの事例があった。このエア・ドゥの失敗への松井氏のまなざしは胸を打った。
いじめ問題に巻き込まれたときに考えうることや、ろう者の状況とケベック州の独立についての状況分析が重ねあわせられる。
これらの分析には異論もあろう。しかし松井氏は困難な状況に直面する人がその状況をどう変えるかについて、どこかちがう目線から示唆を与えようとしている。

チャレンジする人を静かに応援する、恩着せがましくないまなざしがあるのだ。

誰かもいっていたが社会科学は人類が自分の状況をどうにかして変革しようとして努力し、その認識や行動の構造を明らかにしようとしてきた。
世の中はまさにままならない。ままならないことを人類は受け入れ変化させようと懸命に行う健気なものでもあるのだ。

社会科学にはそういう初志が一方であるはずだ。
そういう初志に本書は貫かれている。
困った人を静かにサポートする視線だ。

限界はあると思う。しかしここにはヒュームの哲学についてのきわめてわかりやすい説明もあり、人文系でこういうロジカルな本は苦手だという人にもお勧めだ。

繰り返すが松井氏は恐らく彼なりの社会変革やそのサポートを考えようとしているはずだ。


話は変わるが私は時々「石川君は本ばっかり読んでる」とあきれられる。
たしかに私は現実の諸課題を抽象的にごまかしている面があると思う。
そしてしかしやはり「先延ばし」はまずいにしろ、状況に投げ込まれた中でベターな解決を行おうと私は常に考えようとしている。
考えていることになっていないから、その考えを修正し打開しようとすると、「人との出会い」や「自然」も大事だがそれとおなじくらい「書籍」から勇気を与えられることが実際にある。
これは文字中心主義ではなくて、言葉でしかつたえられないものがあるのだと思う。
それを知り、それを感じなければ私は詩を書こうなんて思わなかったはずだ。

あほみたいな言い方だが、言葉が巌をも実際に貫くという信憑なしに文学は成り立たない。
もちろんほぼすべての事物は相対的な条件にあり私たちの知恵は不確実な状況に置かれている。
置かれているがそれを貫くための作用のポイントはかならずある。
そして作用させるためのツールもある。

例えばそれは言葉である。言葉は言霊とかロゴスだとかいうよりもっと素朴な水準で、互いのやりとりを行う信号だからだ。

素朴な水準で現実を変えようとする。そのことに文学だ、社会科学だという垣根のちがいはない。しかし一方でうまくいえないがどこかゲーム理論の限界もこの本には示されているように思う。
それはこの本がまずどこかで「腹をくくっている」からだと思う。精神主義的な物言いだが古い時代の哲学者のような静かな、しかし強いエモーションを感じさせる本である。そこにはおそらくはただならぬ絶望すらある。それがこの本を期せずして、非常におもしろい社会科学書にしている。

そしてよく考えてみよう。偉大な社会科学者の多くが文学者的センスすらもつことを。
それはテキスト自体の力である。あえて数式をあまり入れていないのは著者がわかりやすさを目指しているからかもしれないが、どこか数式ではなく言葉で語りたかったのかもしれない。私はこういうふうにどんな本でも文学作品のように読んでしまう。悪い癖である。

ちなみにいくつも先行する優れた紹介の記事がある。屋上屋を重ねるのは承知で書いてしまった。ご容赦願いたい。
ゲームの果てには何もない、そして、だからこそ(松井彰彦『高校生からのゲーム理論』) - simply2complicated
魂ほとばしるゲーム理論の本 - hiroyukikojimaの日記
[書評]高校生からのゲーム理論(松井彰彦): 極東ブログ