細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

これは今書かれたのですか?-思想表明してみる

数年前に吉田さんが全面講和を唱えた著名な学者のことを曲学阿世の徒という言葉で罵倒したのは有名な話です。(略)その学者の戦争中あるいは戦前の言論と行動を見れば、およそ曲学阿世といったタイプからもっとも遠いことは明らかでした。しかしながら吉田さんはその学者をおそらく非常に本気で曲学阿世の徒と思いこんだのだろうと想像されます。現にそれは吉田さんだけでなくて、いわゆる日本のオールドリベラリストといわれる人々の少なからずが、その吉田さんの言葉にひそかにあるいは公然とかっさいを送った。(略)おそらく自分たちが圧倒的な力をもつ進歩勢力に取り巻かれている、われわれは今こそ(略)というつもりだと思うのです。ところが反対の立場から見ると全然事態は逆

ああ、これ1950年代の話だった。麻生総理のおじいさんの代の話だった。なんかでも暴言ぶりは似ているような。微妙にいじけてるし。

こういうふうに保守勢力さえ被害者意識をもっているのですから、進歩的な文化人の方はなおさらマイノリティとしての被害者意識があります。保守勢力も進歩主義者も、自由主義者も民主社会主義者も、コンミュニストもそれぞれ精神の奥底に少数者意識あるいは被害者意識をもっている。それだけ全体状況についてのパースペクチブが、くいちがっているわけであります。よくマス・コミュニケーションが万能であるということをいわれます。(略)たしかに日本ではとくにマス・コミの画一化作用は強大なのですが、個々の新聞人に会って見ますと、決してそういう人たちは、マス・コミ万能意識をもっていない。寧ろ逆に一般的に新聞批判に対して非常に神経質・神経過敏になっている、新聞に対する攻撃なり批判が非常に多く、いつもそういうものにやはりそれなりに取り巻かれているという感じを抱いています。

これって今と同じなんだけど。全員被害者で、加害者はどこだみたいな。
そして

また日本を牛耳っているのは官僚だというのも多くの人の常識になっている。私の高等学校なり、大学なりの友人は、当然役人になった人が多いのですが、クラス会などに出てみますと、局長や部長級の役人がやはり被害者意識です。外の社会から見ますと官僚は現在非常に巨大な権力を握っているように思われるが、当の役人そのものは支配者というか権力者というか、そういう意識って物は驚くほどもっていません、むしろ役人というものは四方八方から攻撃され政党幹部からは小突かれるし、新聞からは目のかたきのようにいわれるし非常に割りの合わない仕事だとおもっている。大新聞のいわゆる「世論」はこうした役人からみると、ことごとく自分らに敵対的で、そのことに非常な焦燥、孤立感あるいは憤懣を持っているのです。自分たちの立場や言い分はいっこう通じない、また通じさせてくれないという孤立感です。

大変だ!官僚打倒とかいっている、某なんとか党にもしらせなきゃ!ってこれいつの話だよ。
で。

こうなると国中被害者ばかりで加害者はどこにもいないという奇妙なことになる。

そうだよなあ。

自分の「世の中」への期待が、マス・コミを通じて伝達される出来事と一緒になって他の勢力あるいは集団についてのイメージを生み、それが四方八方とりかこんでいるところ、しかも人間関係がタコツボ型でその間の自主的なコミュニケーションがないところでは、おのずからこういう事態が生まれるということを申し上げたいわけなのです。

みんな寂しいってこと、ではないよね。社会ってのは分業です。タコツボというのはそのセクションですね。その間で「うちのしごとは大変」「ああ、うちもそうなんだよ」みたいな話くらいしかないってこと。

じゃあその仕事の対象って何なの?自分はいつも誰かのことを「考えてあげる」側で、一人の人間の中に「誰かに思われている・働きかけられる」「思っている・働きかける」という両者がないの?ってことなのです。

つまり受動性があるばかりで、主観性がない。時々主観むきだしで「曲学阿世め!」って切れるのはいるのだけど、その人も自分は「受身だ」と感じている。

簡単に言うと本当の意味で行為している主体がないということです。もっと法的に言うなら自分たちのことは自分たちで決める、そのために話し合い決定する、決定したものを引き受ける「主権者」がない。遠慮している。やりなれていないということだと。そう私は35年生きて気がついたのです。自分もそうだからです。

これが今度の選挙でどうにかなるとはあまり思えません。なにしろ麻生首相のおじいさんから続いたことがまだ続いています。これは戦後体制の問題ですか?近代化が悪かったのでしょうか?いいえ恐らくどちらも少しは関係あるけどノーな気がします。

自分は詩を書いてきました。詩の人も詩はマイナーだとかいうのです。確かに僕は詩の発表の機会は多くないです。でもゼロではないのです。作品をつくる、ことはその作品をつくることを通じて、次のちがう自分になることです。そのように記憶を組織したり、組み替えたりして、自分の核となるリアリティに近づきたいと意外と本気で思っています。

詩は介護職をやめたとき、思いついた、ただひとつの「したいこと」でした。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」で、主人公が妹に何になりたいか問い詰められて「ライ麦畑で子供が落ちてきたらそれをキャッチして助けたい」といいます。それくらいぎりぎりのしんどい状況で、ああもう何にもしたくない、しかしやるとしたら「これ」だったのです。当然それではお金が出ず、腹を決めて「障害年金」を申請したのでした。

しかし生きる限り、おのれ自身でありたいのですが、そうしないとはらわたが腐れて後悔しますから。

実際僕は小学6年生のときはらわたが腐ったんです。医者の誤診で盲腸が裂けて、腹の中が炎症起こしたのです。腹膜炎です。死ぬかと思ったのであれは嫌です。だからきっと自分の生命が大切ですから。その生命を大切にしなければなりません。なぜなら、うちの爺さんは徴兵されて大日本帝国軍の一兵卒で、誰かに撃たれて、しかし胸に財布が入って死ななかったのです。どういうことかというと、「神風が吹いた」のではなくて、爺さんは重症でしたが帰ってきて、僕の母親の父になったのです。

日本は戦争に負け、いくたの被害を様々な人に与え、自分らの町も焼かれ、加害と被害の折り重なりの中で生き残った。じいさんもその一人だった。そのことがいいたかったんです。じいさんはそれでも天皇バンザイだったようです。僕は自分の命を危険にさらした人間を好きな気持ちがわかんないですが、その頃の日本人の多くはそうだったんだろうかなと思う。いい悪いはおいて、僕はこのことはなかなか納得し得ないですが、しかしじいさんのことは大好きだったのです。昭和天皇より自分にとってはエライ人でした。こんなこというたら「不敬」ですね。
またうちの父方のばあさんは僕が腹膜炎になったときお祈りを田舎でしてたらしいです。

おやじは、こんなふうに盲腸なってたぞ!といつもどおりの顔でいてくれて、母もよく僕がわがままいうて見舞いに来させてました。大名気分、疾病利得。こういう甘え方しかしらないのかと。弟や友達は見舞いに来てマンガ読んでたような。

でも本当に死ななくてよかった。いや、死ぬ三歩手前くらいで心臓も全然止まらんかったですが。だからこれ以上「はらわた」を腐らしていきるわけにはいきません。腹に膿みを出す管を三本入れたんです。数週間腹に穴が開いてて、そのとき夏休みでずっと入院してたら泣きそうになって先生に「お盆にはかえらせてくれ」といったら先生は「今腹に穴空いているのに帰らせられん」といったんです。母親には「子供にお盆に帰らせてくれといわれたのははじめてじゃ」と笑って先生はいったそうです。だから今も下腹部に傷があってそれもいやなんです。入院中に隣のベッドにかわいい女の子がいてうはうはだったんですけどね。はらわたは嫌です。切腹も(笑)だから次は頭がおかしくなったんだと思う。胸はいやなんです。なぜかというと、自分の兄弟はうまれてすぐ肺の障害で保育器の中で死んだからです。ってタバコ吸うのですが…ここまで告白しなくてもいいんだろうけれど、今日はそんな気分なのです。


じっさいひどい虐めにあって高ストレス状態で免疫力が落ちてたのだと思いますね。いいたいことをいえないし、暴力はうけるし、自分が自分であるような気がしなかったし。だから身体表現として腹膜炎起こしたと思っているのです。被害者状態は命の状態を悪くします。もちろん加害者もですけども。

だから今でもいいたいことを実は遠慮しすぎる面があるのです。そうは見えないと色んな人につっこまれそうだけど。だから、もうキリがないので書くんです。そうやってつっかえているものをとらないと悪いものが貯まるんだろうなと。あと嗜癖になっている気もしますけど、書くことが。

だから正当な意味で、自分の人生を生きたい。そのためには周りの意図や何かを度外視して自分の中の真実にしたがいたいと思っているのです。しかしそれが民主的な原則からはずれたらまずい。自分をいじめた奴と同じ陰険な支配になるから、自分の今の政治思想は民主主義です。きわめてオーソドックスな中江兆民とかがだから好きなのです。その次に湛山、秋水とくるでしょうか。他にも立派な人はいるんですけども。自分の性格はきわめてエゴイズムたっぷりの帝国主義的独裁的性格だと思うのだけど。

自分の生きる社会を、そして世界を自分で書く、きちんと見るには、僕の場合「文学」とそこから生まれる認識しかありませんでした。文学は自己言及的です。しかしそれは不可避的に世界と接触するから、それとの折衝なんです。それは政治と関係なくない。だって政治って日々自分の生活を作る中で他人と関わることだから。福祉制度の利用も、政治だし、買い物も全部そうです。だから表現です。あらゆる行為は表現ですが、そこに筋道をつけたい。自分の捉えかたを書き留めたい。これはコンテキストを形成します。つまり自分の認識、語り方の癖がポジだとしたら、ネガとして「世界の実際のありよう」があらわれるかもしれないのです。そこを期待するのです。また表現は人によませるものだから、すごく他者支配的です。だからこそ気をつけないととんでもないことにもなるし、傑作も生れます。

自分の眼で見て、そこに無限や謎を感じるなら、そこを解き続けるなら、いくらでも課題は出て来るはずです。いや実践苦手なんですが…しかも出たとこ勝負なので…

毎日無力感でいっぱいですが、それはこれまでのツケもあるとおもいますが、丸山真男吉田茂も亡くなっているので彼らのせいにするわけにもまいりません。
上の引用は

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

によりました。第一刷は1961.11.20です。変な文章ですいません。