細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

ある予感のメモ

マイケルのことを書いたが
表われて表したもの―マイケルのことを思った - 細々と彫りつける
なんとなく不十分というかもっと半端ない深淵があるような思いがしている。
しかも、彼の若い頃の映像を見るとまさしく美青年で、彼が自分の姿を変化させていったのは僕にとっても不可解な面がある。
彼のスリラーもそうだし、ghostという曲も自らを死者や幽霊として描いている。
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どうもそういう奇怪な悪夢のようなものに彼が様々な事情や欲望と共に落ち込んで行ったのではないかとも思った。そこには半ば彼も自覚しながらもどうにも出来ないような恐るべき何かがあるようにも思った。彼のPVにはその苦しみの真摯な告白の側面もあるのかもしれない。
彼がスキャンダルでかたられていたのは、私ももっている一般の価値観の恐ろしい側面を見せ付けられるようなところがあり、だからそれを多くの人間が才能ある人間と思いながらも恐れていたのかもしれない。私も恐らくマイケルを恐れていたのだ。

単なるナルシシズムや美しさだけではなく、フロイトならunheimlich(英語で言うとat homeでないものつまり見慣れない、不気味なもの)というようなものがマイケルとそれを見るものとの間に発生したのではないか。つまり日常に生きながら、その日常が異常であり、自分たちを損なうものであり、その当たり前さが自分たちを生かすものでありながら、自分たちを日々損ない壊している、そういう事実のようなもの。その恐ろしさをスリラーやghostは語って、あえて身をもって見せつけているようだ。

マイケルは実際巨万の富を得、多くの人の欲望や煩悩に翻弄されながらそこから脱出しようとしつつ、しかし抜け出せなかった。それなしには生きていけず、しかしそこで生きていたら自分が破壊されることを知りながら生きていたのではないかと思った。私たちが「私」であろうとする限り、自分の中や周りに自分を「否定する」何かがある。それとどう闘い、あるいは受け入れるか。これは全くマイケルを偉業と、スキャンダルとを切り分けるような語り方では語れない。その2つは不可分一体であり、2つを切り離すことではマイケルの示したあり方を理解できないような予感がしている。
切り離すことで私は、とりあえず安全圏にいるように思えているだけなのかもしれない。正確に言えばマイケルを別物とすることで私たちはマイケルを差別しており、マイケルも自分を差別する世界や他者を憎んでいたというような。そしてそういう自分自身をマイケル自身憎んでいたような(いいすぎか?)それは愛情や真剣さともつながっているのだろう。

これは、おそらくプレスリーにもモンローにもダイアナにもカート・コバーンにも、シド・ヴィシャスにも、裕次郎にもひばりにも横山やすしにも、つまり天才を示しながら、早くに破滅した芸術家にいえることではないか。しかしそれは天才のみならず、自分が生きる限り「関係」をもたざるをえず、しかしその「関係」に殺されるという意味で「虐待」や「暴力」や「依存症」、「ひきこもり」「いじめ」「差別」など多くの事象とひとつらなりであると思う。それは人間の欲動や情動の中で「陥りやすい」者のように思う。そこに人間は「意味」や「制度」をつくることで、暴力から身を守ったり、またそれらに取り込まれ共犯関係を強いられる事情がある。そういう予感がある。それを追記しておく。

とりあえず一休み。今日は詩の合評にいきます。