細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

筑紫哲也の追悼番組

今日晩に筑紫哲也の追悼番組を見た。

僕はそんなに筑紫哲也のニュースを見なかったし、なんだか頼りなげなおっさんだなと思っていた。震災直後に失言をしたといわれたときには、ふつうにあの人何言ってんだと思った。

だからこの追悼番組を見ても個人的には面白くないと思ってた。それがなぜか見ている間中しみじみとしていたんだ。

というのは、非常に屈託なく物怖じしない。朗らかだったのだ、取材先での筑紫は。911以降開戦直前イラクに行っても、なんかふつうの観光のおじさんのようにニコニコ見てまわっている。緊張しているのだろうが表には出ない。アメリカは敵だというイラクのおっちゃんの大声の演説を聴きながら、「いや、あの…」とマイクを向けて普通にたじたじなのだ。

そういう大変な場所でも、ニコニコしたりしていることが僕にかつて「この人は何考えているんだろう」という疑念を与えていた。もちろんイラクのおっちゃんだって「なにへらへらしていやがる。日本はアメリカにくっついているじゃないか」と思っただろう。
けれど、ある方向に向かってピリピリしているときにこういうふうに、暢気な感じが出るというのはある意味凄いのではないかと思った。アキバでメイドさんに耳をつけられて笑っている時と開戦前のイラクでの笑顔にあまり変わりないのだ。本当にちょっと抜けているのかもしれないが意外にそういうときに、アホでいられるということは本当に大切だ。芯がしっかりしているのだ、たぶん。

深刻なときに深刻な顔をするのは、正しくもある反面楽なことでもあるからだ。ニュースではそういうふうに眉間にしわをよせて、いろいろいう輩がいる。しかしそれは逆にいえば目の前のことに翻弄されすぎているのではないかと思った。
もちろん筑紫哲也の言論には様々な要素があり、ダメな部分も多くあるだろうと推測した上でだが。


彼の面目躍如なのが彼がwebで公開している最後の「多事争論」である。京都で撮影されている。ある場所の屋上。京都は高い建物がない。すこし曇った空がうつくしい。

http://www.taji-so.com/window.php?mv_id=22

ものすごくクリアーにシンプルに話している。けれどどこか不安でさびしそうである。そしてそれを照れ隠すようにはにかんでおわる。自分がこの世からいなくなるという未来がちかづいてくる。それははっきりしているがどうしていいかわからないという戸惑いがすごく素朴に発言されている。
そしてこの国は未来の子供たちも死んでいく人も大事にできていないという。それは国全体が方向や時間を見失っているということだと。彼は多分自分のいなくなった後の世界を心配している。けれど、ほんの少しゆっくり話して、落ち着いてみると何かが見えてくるかもしれないねといっていると感じた。彼は自分がいなくなるはずの未来を見ようとしていたのだ。

深い呼吸。

いろいろあったけど大事な人がいなくなったのだなと初めて思った。