細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

サルガド

NHKの新日曜美術館を見ていたら、大好きな写真家のセバスチャン・サルガド(マグナムフォトにもいたと思う)が出ていた。
恵比寿で展覧会をやっている模様。
とにかくすごいので、よかったらお近くの方は試しに見に行ってみてください。
俺も写真集しか見たことないので、生で見たいんだけど、ちょっと遠すぎる。金もないし。いや、でも一回は見て見たいな。。
大阪のサントリーミュージアムあたりにこないかな。

http://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/20091009_320627.html

http://www.syabi.com/topics/t_sarugado.html

セバスチャン・サルガド写真展「アフリカ 〜生きとし生けるものの未来へ〜」

会場:東京都写真美術館 2階展示室

住所:東京都目黒区三田1-13-3 恵比寿ガーデンプレイス
時間:10時〜18時(木曜、金曜は20時まで、入館は閉館の30分前まで)
休館:月曜日(ただし11月23日は開館、翌24日休館)
入場料:一般800円、学生700円、中高生・65歳以上600円

精神の構造化、組織化としての文書化

自分の気持ち、心、それを組織、構造化させる方法として

①これにはドキュメント=文書として保存するという方法がある。

文書(ぶんしょ、もんじょ)は、参照されることを前提として記録される情報である。一般にはぶんしょという。もんじょという場合、特に古文書学(こもんじょがく)では、差出人が相手方に意思、用件を伝えるために書いたものをいう。

伝統的には紙に文字で記録されたものをいう。典型的には法律や契約が文書に記録される。これは文書の改変が困難であることと、参照が容易であることによる。この場合、文書に対比される概念は口頭である。

今日では、紙以外のメディアに電子的・磁気的に記録され、コンピュータによって操作される情報も文書の一つである。この場合、英語のままドキュメント(document) と呼ばれることも多い。コンピュータの文書はファイル単位で扱われる。

文書はしばしば裁判の証拠として利用される。

文書は将来に向けて変更がありえる情報、記録は文書の一種であり過去の事実に関する情報、と言う概念もある。
文書 - Wikipedia

新聞記者がテープに保存したり、古くは古文書であったり。これは考えるための基体、素材、土台になるものだと思う。メモはもっと断片的だが非常に近い。

②もう一つテキスト化するやり方もある。

テキストは英単語の text が日本語に取り込まれた語である。主に文章のことで、そこから転じて教科書、文字データなどの意味を持つ。言葉によって編まれたもの、という含みを持つ語で、織物(Textile テクスタイル)と同じくラテン語の「織る」が語源である。
テキスト - Wikipedia

織るということは複数の言葉、行をあみあげて、構成体をつくるということだと思う。ここには幾ばくか「編集」「推敲」「構築」(集めたものを編んでいく)というニュアンスがあるように思う。

③落書落書き - Wikipedia

この行為・またはそれによって書かれた物は、多くの場合において第三者にしてみれば意味の無いものであるが、古いものでは民俗学などに於いて当時の風俗・文化を知る上で大きな手掛かりとなるケースも見られる。ノートの隅や本の端などに書き散らされる物では半ば無意識に書かれる場合もあるが、他人に見せようとして書かれる物では意識的に書き記される。

ただ客観的に価値が無いと見なされた著作物もこのように形容されるなど、この概念が指す対象は広範囲に及び、商業価値の重視されない同人活動では、自嘲を含めて自らの著作物を落書きと称する場合も見られる。とはいえ、それら同人活動の成果物も金を払って購入する者もある以上、無価値であるとは一概に言えない。中には、その記述内容が様々な意味で価値をもちうる落書きも存在する。

この落書がメモであるかもしれず、ドキュメントの一部かも知れず、またテクストの端っこのカキコミかもしれない。みなさんも子供の頃よくやったのではないだろうか。あるいはただ書かれているということもある。ただ「鳥獣戯画」は落書の範疇を大きく超えて「作品」と見なされた例である。また、二条河原の「落書」というものもある。

二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)とは、室町幕府問注所執事の町野氏に伝わる『建武年間記(建武記)』に収録されている文である。88節に渡り、建武の新政当時の混乱する政治・社会を批判、風刺した七五調の文書。専門家の間でも最高傑作と評価される落書の一つである。

鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政が開始されてから程なく、1334年(建武元年)8月に建武政権の政庁である二条富小路近くの二条河原(鴨川流域のうち、現在の京都市中京区二条大橋付近)に掲げられたとされる落書(政治や社会などを批判した文)で、写本として現代にも伝わる。
二条河原の落書 - Wikipediaより


これは建武の新政を批判する「政治文書」であった。この二条河原の落書は「88節」あったのだが、詩人の谷川俊太郎は「落書99」という作品集を残している。これは「88節」の二条河原の落書を意識したものと思われる。
作品を引いてみよう。

*シロウト

<シロウトなんです
科学のほうは>
クロウトです
政治のことなら
シロウトなんです
日本の未来については
クロウトです
永田町の現在についてなら
シロウトなんです
大臣の仕事に関しては
クロウトです
大臣になる方法としてなら
谷川俊太郎「続 谷川俊太郎思潮社1979 P.194より)

括弧書きされ、最後はクロウトかシロウトかわからない。そのことで、シロウトとクロウトのクラス、というか位階がごちゃごちゃになる作品である。
最初の<シロウトなんです>をどこに続けるかで違ってくる。もちろん順番から読めば、<科学のほうは>なのだが。しかし大臣になる方法ならの続きはなんだろうか。

シロウトなんです
日本の未来については

と読むか

日本の未来については
クロウトです

と読むかによって意味合いが変わってくる。よく考えれば、日本もそうだし、周囲の共同体に関しては本来は誰もが「シロウト」の部分と「クロウト」の部分を持つはずなのである。

まずそこで、個々人が自分の構想をメモしたり、あるいはテープに入れたりしてドキュメント化しうる。そのことをテキストとして公開したりすることがブログなどでは技術的には可能である。
またそうではなくて自分たちが約束したことを文書化したりする方法も古くから人類はもっている。

ブログやインターネットのコンテンツを寄せ集めたもののみが集合知なわけではない。個々人の書くもの、話したこと、考えていること、これらはある集合知である。とはいえ、ただそれだけではまとまりを欠いてしまう。であるからある人はそれを「作品化」し、あるいはしないのである。作品は「集合」ではある。しかしある意味で完結しない集合であり、それは時間的、空間的にそうである。共同体も似た側面をもつはずだ。そして必ず破れ目、局外者、反対者を含んで共同体は成り立つ必要がある。民主政体は歴史上、奴隷制や軍隊など様々な犠牲や暴力のシステムを随伴してきた。今も建前上は自由平等であっても、大変な参加格差、障壁が存在し、そのことがそれぞれの人の存在を毀損し続けている。その毀損は大変根深いため、単なる人格の全面肯定では追いつかない。
それぞれがそのようにあるということの意味を互いに考え続ける作業がなくては成り立たない。

そうして、自分の、自分たちの精神を汲み上げ、組み立て、自分なりの痕跡を残そうとする作業があるのだ。ある危機意識から作品創作は始まる。それは多く無意識的なものである。現代思想でテキストやアルシーブ、それから痕跡という言葉もある。しかしこれらの概念は自分たちの創作に引き寄せれば極めて具体的な様相をもってくる。単なる西洋思想の概念ではないのだ。
それは日本や東洋に限らず様々な国に、物語の形成や、精神の具象化の方法があるからだ。呼び名や形はずい分ちがうけれども。それを学問化したのが例えば、人類学や言語学である。人類学、言語学、日本では民俗学というがこれは訪ね歩いて聞いたり見たり参加したりして集めた記録が元になっている。
宮本常一は各地を歩き、その土地土地にほぼ旅人として、国家の記録に反映されない人々の記録を起こして本を書いていた。宮本常一は自分は聞いて回って集めて地味な仕事をしていたのだが、それが改めて注目されたのは年少の民俗学者谷川健一のお陰だとのべたという。*1


作品自体が複数の声である。が、それはあるまとまりを読むもの、みるもの、聞くものに感じさせる。それがまた複数の人や文脈の中にさらされ、接続する。精神とはそういう働きのはずである。おまえが反省すればいいという声や、みんな考えようという空疎な、つまりは暴力的な声が幅を利かせすぎている。危険である。
精神の破壊が進むのはある意味で不自然ではない。それは現代の文明のアポリアそのものでもあるからだ。

さて。
僕は詩を書いていて、「作品合評」といって、各人がそれぞれ作品を持ち寄り、互いに相互批評しあう場がある。これは大変運営に難しさがあるが、うまくいけば、相互創発的な力をもつともいえる。
しかし下手を打つと、お互いのたたき合いで収拾がつかない怖れがある。

しかしそもそも私が自分の作品を書こうといきなり思ったわけではなく、もやもやした塊を次々ノートにぶつけていて、(それは多くは自分がこの世界に存在しないも同然な感覚があり、しかしそういう自分がみた風景や記憶があることを書き留めておきたかったからだが)それがたくさんたまっていって、誰かとつながらなければ、自分がなにがなんだかわからなくなるというところまでいったからである。それでいくつかのプロセスを経て「大阪文学学校」という創作教室のようなものにいったのである。それからもいろいろあったものの、そこで覚えた「作品合評」というやり方には非常にまだ可能性を感じている。美術や、音楽ではもう少しライブとか、審査という色合いが強いのだろうか。わからない。

写真や映像はドキュメントとしての決定的な意味を持ったはずで、思想家ではW・ベンヤミンロランバルトが私の思い出に残る論者である。しかし証言するだけでなくそれを様々な形で編纂する、構造をもった論拠として使用することが、必要である。そうでなければただ「戦争の悲惨さ」が観念として訴えられるだけだ。前のエントリで扱ったサルガドはそれを免れているようにも思うのである。

言葉の培地

詩人や文学者の仕事は、わたしたちが話し、書き、読み、さえずる言葉を粉々に粉砕することではない。そう思うときがある。

日々、言葉は粉砕される。精神病によっても、身体の病によっても戦争によっても、裏切りによっても。そこでは語りがたさの感触だけが残されている。
あるいはその粉砕や失語によって、くりぬかれた空虚の中に、手当たり次第に言葉がつめ込まれてしまう。

だから言葉が失われることそのものよりも、発語が壊れた後からの再出発が大事なのだ。

その人なりの言葉の立ち上げこそが大事なのであって、恐らく詩人はそこで非常に大事な役目があるのではないかとおもっている。
というより、詩人はある特定の人物を指すのですらなくて、ある言葉を担うとき誰でもその瞬間は詩人なのではないだろうか。

硬直した言葉を発しても、すぐへし折られる。あるいは生きていくことそのものに沿うことができない。

硬直した言葉をただ破壊しているだけでは、ぺんぺん草もはえない。

そして世上を覆うのは硬直した言語が別の硬直した言語に打ち倒される光景ばかりである。
粉砕されるか屹立するか、そういう運動しかない。
私たちが言葉をいうやり方は実際そういうものではない。声の大きさを競っているわけではない。人の言葉に耳を傾けるのはそれがでかいからではない。それが謎の場所から聞こえてくるからだ。

恐らく狭い世界というものは、声の大きさや頑なさだけが支配する場所なのである。
それはどこでもいつでも発生する。だからそこで様々な声の種類が響かなければ話にならない。
まとめたり、組織するのはそれからなのである。

まず様々な声が響かないと、芸術や生活の培地そのものがなくなってしまう。そのような培地そのものが根こそぎやられていることが危機であって、ありきたりの言葉がまかりとおる現象を叩き潰しても、キリがない。

土の成分について考えてみよ。それは、本当に様々なそこらじゅうにあるものが変形し、変質している姿である。土それ自体が環界とその代謝である。
それは硬直したら草木も生えない。ミミズがいたり、そこに様々な運動や生成があるという事実性に基いて土はある。言葉もそれに非常に近い運動性をもつのではないか。

空から降り注ぐものも土の成分であり、土からなるものも空を構成しているのである。

配られたカードで勝負するっきゃないのさ

題名は今日の我が家の「スヌーピー」カレンダーの標語である。*1
自分ができることは限られている。伝えられることも限られている。もしもそれが様々な波及効果を生むとしてもそうなのである。

もちろん諦めばかりが先行しても仕方ない。
ただ、まずは、自分の周りの人と話すことだ。自分には何が足りないか、何が他の人に分け与えられるのか。それは食べ物やお金のことというよりも、それを支える関係性において、例で言うと自分が過大に家族の困難を背負っていないか考えることである。家族というものは私の自我の形成においても大変大きい問題だ。たとえフロイト精神分析理論の大半が間違っていたとしても。それは人間の限界性であると同時に、生れ出る培地なのである。(もちろん血でつながった家族に限定されない。)
誰かの肩にばかり仕事の重みがかかり続けてはならないのだ。
役割の分業・分担はあるべきである。*2しかし例えばある女が母の役割ばかりをやり続けていたら、その人は自我の構成において、母の比重が大きくなりすぎる。
もちろん子を産んだり、育てたりすることで人は母になる。しかしそれだけであることはできない。通行人であったり、病者であったり、消費者であったり。それはもう役割というのもはばかられるくらい私たちは毎日何かを演じているはずだ。その役割の多さというものに私たちは参っている場合すらある。

役割の多さを逃れようとしてアイデンティティや硬直的な役割同一化が生れたのかもしれない。(このことが制度疲労を起こしているわけである)

それは介護職も警察官もすべて同じことだ。介護職も警察官も、毎日それだけでありつづければ、組織に埋め込まれ、そのトーン一色になってしまう。ひきこもりや精神病者も、そのような役割同一性の罠自体から逃れられていない。
変身やコスプレよりも大事なのは(というのはそれはもう毎日すでに行われていることだから)自分がそれを貫いて「人間」であることだ。
人間それ自体は硬直した同一性(アイデンティティ)であるよりも、可変性、弾性そのものであると思う。
人間をスローガンとして使った時点で、硬直化が起こる。例えば、「コンクリートから人へ」というのがそういう劣悪なスローガンの一つだ。

人間、それは悪く言えば何者でもありうるということだが、何者でもありうるということをやり続けることが不可能な以上、ある消滅しうる個体である他ない。(様々な革命の理念はこの「限定性」というものを忘れているように思う)
消滅しうる限定的な個体が、他の存在と連繋して、たまさかその「人間の条件」から横滑りしていくことが芸術なのではないだろうか。

その芸術の一形態として例えば生活や仕事があると考えてみてはどうか。
ピーナッツというマンガに出てくる有名なビーグル犬スヌーピーは「配られたカードで勝負するっきゃないのさ」といっている。
今配られているカードは有限であるけれども、その組み合わせによって様々なポテンシャル、技を形成できる。
スヌーピーはそのことも同時に伝えているように思われる。