細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

【詩作品】スカートも蝶も

何かあったのかな

何かなかったのかな

 

スカートも蝶もない

予定もない

約束もない 顔を作ることもない

作る顔がない 涙の溢れた岩

 

大地 ただ大地

 

激しい感情 看板

大地 

スカートも蝶もない

飾る歌もない

読ませる言葉もない

 

託された使命も

人生ですべきことも

ない

 

気持ちはある 底なしに 

それは洗っておらず

ただ溢れてくる

誰かを迎え入れる

入れ物がない

 

迎え撃つべき敵も

読み解くべき歴史書も

罪に満ちあふれた世界に対する

道義とか正義もない

 

片隅でひっそり落ち着く

日陰なりの人生も

焼き尽くすような青春もない

 

ないものを数える不毛さしかない

故に手に入れる勇気がない

勇気を高める練習も

愛されるための技も

不器用ながら信用されそうな

そんな人徳も無い

 

穴を掘って光を入れる

大好きなものが

降り注ぐかもしれない

布を広げて

風を抱きしめれば

スカートか蝶が

大空の彼方から

来るかもしれない

 

燃え尽きて

明るい光は

燃え尽きる温度なので

【詩作品】バンザイ

高まる 破片である

考えをまとめない

一本の芯である

私は

 

私はテレビニュースを見る

死んだ人の数だけが

通り抜けて、父や母の顔も

画面をみている

朝かもしれない、それは

 

多分私も殺されるんだと

ストンと落ちた

殺されることは確かなのだ

決まっていたのだ

何度も否定したのに 悔しいものだ

 

私はたぶん殺されるのだろう

なぜかそれは確かだと思う

 

私の無暗な愛も私の宝だ

愛は不確かだ それが不確かであるほど

苦しさは確かだ

愛することを捨てて

先にひとを殺すということは楽な話

そう思う人があるのだろう

ひとを愛さないなら

ひとは数になるのだろう

 

ひとは結びついているから

私の破片は切っ先である

私が切り裂く線はやはり

一本の芯である 芯は紐をつたって

さらに意味を奪い合う

 

私は切っ先であるから

結びつきを作ることができない

 

幸せな顔や楽しそうな顔を呪うということもある

愛さずに殺したり

ないことにしちまえば楽だ

そう思う人がいて

私はその人を否定できない

バカなことするなと何度も叫ぼうと答えはない

夢の中で叫んでみた

叫びながらちゃんと夏の昼下がりに

目を開いた

 

あいまいに諦めているのかもしれない

幸せな顔や楽しそうな顔を

私は最後のところでしていない

このままの顔で

この世界はいつまで

無くならないのか

 

私が笑う前に

私の世界が終わったら

どうしよう

空々しい気持ちになりながら

私は普通を装おうとする

ぎこちない苦笑で

日々を焼いている

 

通り過ぎていく夜の街に

誰もが

どうしてよいかわからない

結局どうしてよいかわからない

誰もがディスプレイを

見ていて

時間を流す力がない

 

花が開くとき

空気は花を温かく見返す

私の周りから

切り裂かれた空気の破片が

落ちていく

 

人を殺すなはわかっている

私に何があるか

殺されるかもしれない私に

何があるか

 

強い叫びだけが突き上げる

 

バンザイ

バンザイ

 

生まれてしまって

こんなに溢れて

行き先がわからない

 

バンザイ

バンザイ

 

 

【詩作品】海辺の待合で

高まることはない

深まることはない

進むことはない

 

旅がらす

海辺の公園

真新しい靴

 

みじめな日々

布団を抱いて羽ばたく日々

 

お父さん お母さん

らっきょう

草花

短い足

 

試している

この青空が

僕を

試している

僕らを

生きていけるか

生きていることが

安らかか

安らかでないなら

何故であろうか

 

毎日

終わろうと

したくする

波動がつらぬき

矢が飛んでいく

 

もう時間がない

まだ時間のふりをする

この命は

約束を持たない

愛するという気持ちを

海辺の草むらの上に置く

 

ここに

来ることがあるだろうか

誰か来ることがあるだろうか

 

 

【詩作品】光の謝罪、夜の無罪

1人で

夜を過ごしている

厳しい言葉を話しすぎて

ゴメンなさい

謝っても意味ないが

むしょうにゴメンなさい

 

それを鉛筆で紙に書いて

丸める

 

夜は誰にも謝らず

ただ影に隠れた惑星だ

あなたに話す内容なんて

大してない

三つ葉、サンショ、タマネギ

シナモン

 

あなたに伝えたい気持ちは

私の牢獄に書いておいた

とてもとてもここから出て

ここから出ていきたい

出たらすぐ死ぬ虫になって

光のある方向に

たぶん飛んでいきましょう

 

これからは

終わりに向かう

だから

この広い空の

さみしい野原で

笑いながら転がり続ける

 

海を渡る

私たちは

ふるさとを亡くし始めた

亡くしたふるさとが

巾着袋で泣いていた

 

のど飴

道行き

旅がらす

白黒写真

だぶだぶの洋服

ハチマキ

ビラまき

改札

 

誰がいたか振り返る

チラチラと光の筋がみえて

何もかもが始まっている

あまりに

多すぎる

暗闇の線路の向こうで

 

 

 

問いも答えもない手紙

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(以下はこの音楽に触発された僕の詩です。当然草野さんの歌詞より下手です)

ー問いも答えもない手紙ー

 

この宿題を解かなくてはならない

この宿題には問題さえない

遠くの空に手を伸ばしつかみ取った朝の光が

何の意味をもつのだろう

 

あの時、悲しい思いをさせたあの人に

僕は届くことがない手紙を書かなければならないだろう

この愚かで小さな僕が壊れて

流れ出した未来に向けて

 

たぶん命乞いをした日々にも

それでも僕は全く何事もなかったかのような

顔をし続けているだろう

それは僕が背負った唯一の顔

あなたは変われると

あの人の中の正確な羅針盤が方位を示した

僕はその胸の羅針盤に顔を寄せ

涙を流すしかなかったのだ

 

しかしあの頃僕には

その方位を歩き出す力がなかった

誤魔化して歩き回ることもできなかった

疲れたから眠らせてくれと

いうしかなかった

 

その時をやり直せないということを知るのに

何度寄り道をし続けたかわからない

 

それでも笑って

それでも懲りずにいる

夜の闇に抱かれながら

僕はこの気持ちを手放さないでいる

強く抱いて

その力を信じて

ただの馬鹿力であふれて燃え尽きそうで

 

 

 

 

工業業界紙が放射能汚染土壌再利用を推奨し、がく然とする

 

日刊工業新聞放射能汚染された土壌の再利用を推進する記事を書いていますが、8,000ベクレル基準やさまざまに指摘される疑問についてはほとんど何も触れずに、ひたすら震災瓦礫と同じ理屈を展開しています。
せめて基準が80倍された事実に触れないと誠実さを欠くのではないか。


8,000ベクレルは従来の原子炉ゴミの再利用基準=クリアランスレベル100ベクレルの80倍です。

リアランスレベルの年間実効線量は外部被曝にして、年10マイクロシーベルトと言われています。
しかし8,000ならば、その80倍で800マイクロシーベルトに達します。
これは1ミリシーベルト近く無視できる「微量」な線量ではない。むろん直にそばに置くわけではないのですが、それでも工事作業者や周辺住民は工事中内部被曝しないのか。

 

また政府は、覆土して遮蔽するといいますが、防潮堤の基礎材に使われるなら、災害などで防潮堤が破損した時に流出する危険がすでに指摘され、テレビ朝日のそもそも総研で、放映されています。
また、地下構造材に埋めて仕舞えば地下に雨水などが浸透したりするでしょう。
また毎日新聞が暴露したように、8,000ベクレル最大の土壌を埋めた場合、100ベクレルまで下がるには170年もかかり、政府は長期管理目標値を作りあぐねています。

つまり前代未聞のやり方なんです。


政府はなかなか福島や関東に指定廃棄物の処分場がつくれず、しかし帰還はさせるというので、慌てて、避難指示解除地域にうず高く積まれたフレコンの中身を全国で処分するためにこの基準を作ったと考えられますが、帰還自体に強く問題がある中、さらにそこにある汚染土壌をリサイクルとは、、

そもそも何かおかしいではないですか。復興の妨げになっているのは、政府の後始末まで考えない除染計画、非常に問題になっている放射能基準策定、住民の意向を組むことなく予定ありきの帰還、避難者や被害住民への東電の不十分な補償と政府の避難者や被災者への支援打ち切りではないですか?

除染袋がこれほど積み上がるまで、手をこまねいていた政府や学者やマスコミの責任はないのですか?

それを汚染土壌は危険ではないから受け入れてとは何重もの議論のすり替えではないか。


日刊工業新聞業界紙ですから業界の中にうっかり納得する人もいるかもしれません。

ですからもう少し客観的に記事を書いてくださらないか。せめて基準値には言及して是非を深める議論を呼びかけるべきだったのではないか。

 


このようにある種の誘導的な論調があらゆる媒体で展開されるのは、憲法や他の公共事業、再稼動でも同じです。注意しましょう。

民主主義は正確な情報を示して、議論をすべきですが、業界利害や政府の意向が重なるとこのような記事になると思うと、この国には民主主義はないのではないかという感を新たにせざるをえません。

 

社説/放射性物質汚染土の処理−安全性を確認して再生利用を進めよ | オピニオン ニュース | 日刊工業新聞 電子版 https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00392512


放射性物質汚染土の処理−安全性を確認して再生利用を進めよ
(2016年7月13日 総合4/国際)

環境省東京電力福島第一原子力発電所事故による放射性物質汚染土を、盛り土などの構造基盤材に再生利用する方針を打ち出している。国民の間には微量の放射線に対する不安があるが、被災地の復興に欠かせない施策だ。安全性を確認しつつ、再生利用に取り組みたい。

福島県内に残る汚染土は、最大で推計2200万立方メートル(東京ドーム18杯分)。原発周辺だけでなく広範囲の市町村の仮置き場に山積みされており、これが物心両面で被災地の復旧・復興を妨げている。

原発のある大熊、双葉両町では、中間貯蔵施設の整備が進んでいる。今春、各地の仮置き場からこの中間貯蔵施設への本格輸送が始まった。一方で汚染土を処理してから土木資材にする再生利用の安全性を巡り、議論が起きている。

汚染土の最終処分量を減らすためには、土中から放射性セシウムが付着しやすい細粒分を取り除いて再生利用することが不可欠だ。環境省は管理体制が明確な公共事業に限定して、処理ずみの土を土木工事の構造基盤材に活用する方針。放射性物質汚染対策特別措置法に準じ、用途ごとに住民や工事作業者が追加的に受ける年間線量を覆土などで抑える遮蔽(しゃへい)基準を設けた。

ただ処理ずみとはいえ、土中のセシウムは土木構造物の耐用年数を超えてごく微量の放射線を出し続ける。その点で「100年を超すような管理は非現実的」という反発が、関係者の一部から出ている。

東日本大震災の直後、全国の自治体はこぞって被災地復興に協力する姿勢を示した。しかし津波で生じたがれき処理では、住民の中に放射能汚染を懸念する声があったことから受け入れにきわめて消極的だった。

人体に影響のあるレベルは論外だが、微量の放射性物質まで完全に取り除くには膨大なコストがかかる。もともと自然界には放射線が存在しており、その強さは地域によっても大きく違う。政府は関係者に安全性を十分に説明すべきであり、あいまいな理由で再生利用が進まないようでは困る。」

日本国憲法は一度も生かされていない・生かすことこそが挑戦-憲法改正がこの国ではじめて本当になされるかもしれない中で

 参院選挙に敗北したのは、悲痛な思いであった。

私は野党のどこをも支持していないが、今回は憲法改正阻止がかかっているため、とにかく憲法改正阻止を掲げる政党が勝つことを願っていた。

 しかし結果は、改憲政党である自民公明維新心の勝利である。彼らと無所属の議員で、憲法改正を国会で発議するのに必要な参議院議席の3分の2である162議席を越えた。衆議院も自民公明維新などの改憲派で3分の2議席を越えているため、今後憲法改正の議論が国会で本格化することになる。簡単な流れとしては憲法審査会で、どのような憲法改正をするのかが話し合われ、条項や項目が絞り込まれ、国会全体で採決し、総議員の3分の2で発議する。発議のあとは、国民投票法に基づいて、改憲是か非かの国を二分した選挙が戦われ、憲法改正の投票が行われる。

 有効投票数の規定がないため、どれだけ投票率が低くても投票数の過半数をもって、憲法改正の是非が決まる。

 

 今回の敗北は予想されていたので、とにかく改憲発議を防ぐための野党共闘が目指された。確かに北海道・東北・沖縄などTPP原発事故、基地政策など煮え湯を飲まされ続ける地方では、野党共闘は勝利したが、都市部で自民党が勝利し、また西日本では大阪維新が躍進した。私は野党共闘は万能ではないと思ったし、しかし限定された意味はあると思ったし、実際一人区で一定の成果は果たしたが、野党の大幅な躍進があったわけでない。また維新の躍進、これは大阪府の私には大変ショックであった。

 それからずいぶん体の中の疲れが出てきた。

 そんな落ち込んでどうするといわれたが、落ち込んで仕方ない。なぜなら、もう憲法改正の議論や国民投票を避ける手段は限りなく少ないからだ。

 自分は無力であり、自分のいる陣営の無力を感じた。私たちはこの社会の中で時代遅れの少数派なのだ。

 

 

 ただし。

 私は現憲法に違和感がないわけではないが、その平和主義、人権保障の精神はやはり比類のないものだと思っている。それは私に戦争体験者でひん死の重傷を負った祖父がいたためである。私はイデオロギーではなく、自分の祖父が死んでいれば自分は生まれなかったという実感を持っている。であるから私は運命論的な意味での厭戦主義者、平和主義者であるし、憲法の平和主義について何の違和感もない。

 

 戦争が一般的に悪いか悪くないかということではなく、自分もまたサバイバーの子孫であるという体感がそれを支えている。つまり私にとっては憲法的平和主義はきれいごとではないのだ。だから多くの改憲派の主張である「アメリカに押し付けられたきれいごとの憲法」などという論難は何んとも感じない。生きてりゃいいさとしか思わないのである。生きてりゃいいさ以外のつまらない戦争正当化の小理屈など滅びてしまって構わないと思っている。

 むろんこの世界には闘争や一筋縄ではいかない対立がある。私は非常に怒りっぽい人間であるから、よく人と対立している。人と対立するのを緩和するあらゆる手段はとられるべきだと思っている。しかし銃器で頭を吹っ飛ばすのは「黙らせる」「消し去る」であり、「対立を調和させる」ことではない。

 また多くの場合、対立や違和感が丁寧にすくい取られるのが大事で、誰かが乱暴に仲良くしようと提案することは多くの国連の勧告がそうであるようにより大きな国の暴力的調停を生み出すことが多い。空爆経済制裁は多くの場合、異常に肥大した強国によるゆがんだ対応であり、丁寧な停戦合意、平和構築の取り組みが必要なことは言うまでもない。

 戦争の原因は多くの場合、格差や恣意的な支配、統制、差別、過剰な集団主義など経済的社会的なゆがみに招来している。誰かと誰かが喧嘩してではなく、ガス抜き的に血が流されその量がどんどん増えていくうちにとめどがなくなっていくものである。

 しかし日本の平和主義者や好戦主義者は「仲良くすること」と「険悪になればどこまでも殴るしかないこと」との空疎な対立を演じているように思えてならない。そんなことはないというかもしれないが、沖縄へのリアルな差別的対応をこの国の微温的な勢力も反動勢力も部分的局所的なものと捉えたがっていることからも感じるのだ。

 平和は仲良くすることではなく、戦争の抑止策はより大きな暴力ではないということがわかっていないのだ。

 平和が仲良くすることではないという場合、対立や違和感の微妙な感触を丁寧にすくい取りながら、対立が生じている人々の間に何が生じているかを知ることが大事なのである。それは具体的な経済格差や差別や恣意的な支配が生み出した構造的なひずみのようなものがあるのではないか。互いに憎しみ合っているということ以上に人がひずみを引き受け、引き裂かれていることが無力や感情のすり減り、変質を作り出しているのである。

 そういう意味で日本は「平和主義が失われている=みんなが仲良くしていない」から崩壊しているのではない。現在生じている具体的な問題を具体的に減らすということを怠っているのみならず、政府がほとんど故意に解決を諦めていることによって地滑り的に社会に非常な険悪さが漂い、思考や感性がすり減っているのである。

 そこに政府はさらなる格差の拡大によって、力の差による支配、この社会の差別性の温存という形で、自分たちの権力を発動しやすい条件を作り出そうとしている。

 そのプロジェクトの一環の中に、憲法改正もある。

 

                  *

 

 憲法改正が目指されるもう一つの条件は原発事故の未来のみえなさを復興という言葉で何重にも塗り隠したために、なぜ未来が見えないのかわからないまま、未来のみえなさだけが肥大し、それでも経済だけは動かさなければならないというおおよそ非人間的な社会の現状が、人々を閉塞と強い無力感に追いやっていることがあげられる。

 この閉塞と無力感は日本の支配体制の限界が作り出したものであるともいえるが、原子力に反省はなく、より強いものが経済のためには仕方ないといいながら、原発をアリバイ的に動かしている状況である。この仕方ないの威力が、同時に「こんなうっとおしい世界はない」という閉塞の打破への無軌道な願望につながっている。

 

 何のためかもわからないままこの社会や集団や家族を動かし続けなければならないが、そこには原発だけでなく社会保障や自然環境の安定的な維持も存在しないという未来のみえなさ。これがアメリカではトランプを、日本では野党という代案を失ったままの自民党一強状態を生み出しているのである。

 

 これに対し、日本のリベラル・左派は「守る」というメッセージを出し続けている。それは残念ながはぬるい現状肯定にしか多くの人は見ておらないようで、橋下や安倍ら保守が提案する掛け声だけの暴力的な代案に人々は乗ってしまうのである。

 そのように未来が見えない状況の中で、現状の自分たちを変えたくないが、すっきりしたいというねじれた解放願望が、より保守的な支配の温床になっているのではないかと私は思っている。

 

 では、これに対して現憲法を「守る」というメッセージは有効か。有効でないにしても、維持し続けるべきか。無論近代立憲主義・人権の保障・平和主義は失ってはならないとは思っている。

 しかしそのことは憲法を「守る」ということなのだろうか。

 むしろ日本国憲法は一度も守られたことのない憲法なのではないか。

 基地も原発もそしてこのありえないような差別、経済格差、少子高齢化は、この国で憲法の精神が空文ではなかった場合、どこかで押しとどめられていたかもしれない。

 しかしほとんど生かされていない。

 どういうことか。

 

 私たち憲法の精神を次の世界に活かすものがとるべき道があるとしたら、「この憲法が一度も生かされていない」ということ、守ることこそが新たな課題であり、その先にしか、語の本来の意味での古びた憲法を改めるという意味での改憲はないのではないかと思う。

 

 そういう意味で、憲法は新たに生かすというメッセージがいま考えられる革新的なメッセージではないかと思っているところである。

 私は欺瞞と甘さばかりの人間だ。しかし嘘は尽きたくないし、もし改憲が必要なら、本当にそう思うならそういうかもしれない。しかし、本当に今改憲は必要だろうか。これだけ高邁な憲法の文言があるのに、ほとんど生かされていないとしたら、まずこの宝の持ち腐れを生かすべきではないか。

 このほうが新たにダメなものを作り直すよりはるかにコストも安く、本当の意味でさわやかで新しいし、自主的・挑戦的だと思うのである。