細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

私たちは失明寸前の世界にいる。

 しばらく日記を書いていなかった。ずっと災害廃棄物の広域処理や放射能汚染について考えたり活動したりしていた。福島在住の方や東京から避難した方々のお話も伺った。この事態は思ったよりもっと大きい。そういう実感がある。
 
 私はしかし、放射能について考えているのだろうか。放射能自体は人間にとって制御困難なエネルギーであり、制御困難であるものが核実験からずっとあったのだがチェルノブイリ、福島とそこいら中に偏在する状況がさらに大きくなった。そういう意味では私たちは確実に「滅び」の足音を聞きつつあるようにひしひしと感じられる。

 滅びの足音は大きく、しかし一見聞こえにくい。しかし夜風や雪や川や雨の中に土や水の中にそれが多く含まれた。ある人は言った。福島から関西に来ると子供を公園で安心して遊ばせられる。今までずっと緊張していたと。ある人は言った、東京から大阪に新幹線で来るとき、どんどん光が満ちるようだ、空気が思いきり吸える、今まで深く息が出来なかったのだと気付いたと。

 それくらいまでに当たり前なものが奪われている。ダンサーインザダークで主人公の女性が失明寸前の時、「私はたくさんのものを見た。水や木や人々を見た。だからそれでいいの。もういいの」というようなことを歌ったシーンが印象に残っている。
 私はその時のことを思いだしている。

 私たちは失明寸前の世界にいる。

 光を失って、心置きなく飲める水や食べ物は限られてくる。それを自然は何百年も何千年もかけて循環させる。循環させる中で、放射性物質はその荒ぶるエネルギーを失い、別のより安定した物質に静かに変化し続ける。

 多くの原子炉から飛び出したものが、より安定した物質になるまで何年も何十万年もたぶんかかる。そういうものさし、時計が生まれて、それが今私の生まれた国にたくさんある。

 こういう問題が今身近な問題なのに、身近な問題が語られない。自明なことこそが一番難しい。
 私たちは慣れて盲目になる。慣れるしかないとも思う。しかしたぶん体は放射能に慣れる前に崩壊してしまう。放射能のほうがずっと先まで存在する。存在し続ける。
 私たちは敗北した。この敗北を認めることからしか、この私たちの文明の先に私たちは行けない。
 石垣りん*1山之口獏*2や、原民喜や、井伏鱒二放射能の問題を描いた。なぜか、彼らは流行りやただの恐怖から放射能や核を描いたのではなかった。私たちがどうなってしまうかわからない。地震津波や雷や台風のせいではなく、なぜか核分裂を開発してしまったために、もう本当に私たちの身に何が起きるかわからないと彼らは深く深刻な意味で正確に気づいていたのだ。その嫌な感じが私たちの日常を浸していることに。

 

私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心に止め、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかってひらけている。もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死の危険が横たわっている。

ラッセル・アインシュタイン宣言−日本パグウォッシュ会議

今ならこの言葉がただの脅しでないことが実感できる。
本当にどうなるかわからない。
だからどうにかするしかない。
正当に事実を見て、私たちがもうどうなるかわからないことを
正確に見つめて、その前でその不安を感じ続けて
今できることを一つ一つ行っていくしか
もうない。

……僕は嘆くような気持で家を出ると、街を通り抜けて、川に添う堤の白い路を歩いて行った。うっとりとしたものは僕の内側にも、僕の歩いて行く川岸にもあった。白い河原砂の向に青い水がひっそりと流れていた。その水の流れに浮かんで、石を運ぶ船がゆるやかに下ってゆく。石の重みのため胸まで水に浸っていながら進んでゆく船が何か人間の悲痛の姿のようにおもえた。僕の頭上を燕はしきりに飛び交わしていた。月見草の咲いている堤の叢に僕は腰を下ろすと、身体を後へ反らして寝転んで行った。すると眩しい太陽の光が顔一ぱいに流れて来た。僕は眼を閉じた。閉じた瞼の暗い底に赤い朧の塊りがもの狂おしく見えた。「世界はこんなに美しいのに、どうして人生は暗いのか」と僕はそっとひとり口吟んでいた。(この静かなふるさとの川岸にも惨劇の日はやって来たのだった。そして最後の審判の絵のように川岸は悶死者の群で埋められたのだが……)
原民喜 夢と人生