細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

ナラティブセラピーから考えた

CiNii 論文 -  <再著述>としての成長とそのコミュニケーショナルな条件 : ナラティヴ・セラピーを手がかりとして

このテキストの存在を教えていただき以前から興味を持っていたナラティブセラピーについて再び学習する機会を得ました。
私は詩をやっている関わりでナラティブつまりものの語り方に関心を抱くのは必須であります。
この論文への子細な感想はここでは書きませんが、大事なのは、人は語りえないように思える「何か」(etwas・something)を分節しようとするときに非常に苦労を要します。
体験について適切な語彙を与えようとして何年も苦しくことがあります。文学者のみでありません、例えば自らに訪れた事故は例えば肉体的損傷以外にたとえようもない理不尽の感じを与えます。
なぜなのだろうという問いから発して、そこにつまり何らかの分節と体験の自らのライフストーリーへの位置づけがなければなかなか生きていけません。

その前に一度体験への失語が生じてそれを再組織しなければならない時があります。言葉と存在のかかわる層まで降りて、比喩を再組織しなければならないのです。これは以前取り上げたカリガリスの精神病臨床の話とかかわってまいります。【読書中】カリガリス『妄想はなぜ必要か-ラカン派の精神病臨床』 - 細々と彫りつける

そしてその体験を何らかの形で関係をとり結んだり、区切りをつけることによってつまりナラティブセラピーのように自らを不当に責めさいなむ物語から身を引き離し(外在化)違う物語を紡いでいく時に、心身の養生と人生の違う段階への移行が可能になるのではないでしょうか。
その意味で当該論文の著者が「成長」に深い関心をもつことは至極正当な関心に思えます。
語りがたい事柄への対応、言葉の模索あるいは更新、それらは自らの心の構成さえも一部改編することになるでしょう。それはいうなれば世界を転回・展開させるでしょう。

私にはナラティブ自体の学問的位置づけやその正しさを判定することはできません。ただ私自身が己自身の求める治癒を考えたときにかつてこの著書は参考になりました。「子どもたちとのナラティヴ・セラピー/ マイケル ホワイト, アリス モーガン, Michael White, Alice Morgan, 小森 康永, 奥野 光/ http://htn.to/N2stzk」カウンセリングに行っていたときに感じた違和感にこの本は適切にこたえてくれました。
私たちは向こうの筋書きに乗って「治される」のではないのです。己の心の中にすでに物語の種はあるのだから、それをじっくりと組み換え編みなおすことが、そうして生きることはすでにセラピーなのです。

しかしそれにはある場合支えてが必要です。自身が人生のauthorであるとしてもだからこそ先達の言葉を知ることは非常に有益かもしれません。その取り入れ方のたずなを自らが握っていればです。

このことは、心理療法に限ったものではなくなぜ人は芸術を労働を必要とするか、つまりなぜ生きるかへの問題関心につながりますがまたそれはいつか別の機会にかけるとよいのですが。