細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

騙されるのではなくニードにたどり着くことが必要だ

 例えば政治の目標を人々を救済することと定め、それに専心するスタッフや財源がつぎこまれても、それを受け取る人々が「その救済はいらない」といえば、その「救済事業」は一巻の終わりである。

 福祉であれ何であれ、人にサービスを提供する事業はそのサービスを必要としない人には通じない。(福祉を悪く書いているのではないどちらかといえばそれをよくしたいと思い書いている)
 そしてサービスを受けないものは「救済を望まない者」のように扱われがちだ。時折野宿者は自らその境遇を選んだかのごとく言われ、もちろんそのような傾向が本人に認められるとしても、単純に集団で生きることが辛くなった人間がいくつかの経路を経て路上に出たことも否めない。

 そういう人間が簡単に心を開くと思うことがまず人間をバカにしている。しかし同時に私たちは他者と共に生きる存在であり、心をいつもではないが適切な状況で開示できなければ共に生きることは難しい。むろん心を開くこととサービスや阿りはちがう。ここを区別できないで、矜持をうしなっている人間も多い。このことも現代社会の無力感の一因であろう。つまり他者のニーズに振り回されてしまうのだ。
 
 福祉社会で叫ばれる「包摂」にも危険がある。つまり救済を受け入れるように「包摂」されてしまう面が大きく、例えば「自立」というスローガンも精々消費社会や労働社会への適合が目指されるわけである。
 しかし逸脱者はそこへこそ違和感を持ち、あるいは苦痛を感じたのだからそこへ何の抵抗もなくリハビリとして戻れということは方法としても思想としても失効し破たんしている。もし労働が人間活動の本質だとしてもその在り方を問い直すことなしに、再適応は難しいのではないかと私は考えている。

 また大ぐくりで現代の世界は消費を促す広告や接客技術や環境管理を通じて、人々に「サービスを受け取りたい」という感覚を作り出して、新たな消費=ニーズを作り出す社会なのである。これは乱暴に言うならば、ソフトな詐欺恐喝が横行している社会ともいえるのである。であるから、老人が「オレオレ詐欺」や「振り込め詐欺」に引っかかるのは老人たちが愚かなのではない。今日の社会の習慣に従って自動的に行動した結果そうなってしまっている面が否めないと思われる。そしてこれは福祉がケアや支援の技法を洗練し、美辞麗句でその福祉の介入性や拘束性を糊塗するのとちかい。消費社会の作法と同じ戦略を福祉やケアもとり始めているからだが、ここでは介護という労苦は利用者へのカスタマーサービスや真心に変換され、そういう技術を介護者に仕込み、またそれを受けるしかない境地にある当事者がそこで回復を目ざしたりそこから消費社会へ「自立」していくことが奨励されてしまう。(これは戯画化した記述であるが、単純に生きている生きられている人間の実態を現場の人間は見ながらやっている。私も勤務中そうであった。しかしそれでも仕事相手でもあり血の通った人間でもあるということはいくつかの難しさを引き起こす)

 こういう例を考えてみる。
 例えば電話や訪問でのセールスに対する私たちの忌避感がある。
 私たちは自動的に勧誘にしたがってしまう行動の様式や作法を身につけている。つまり従いやすいからだに実際になっているために、その自動的な行動のスウィッチを切りたがっているのではないだろうか。
 「ありがたいだろう」「いいものですよ」というお節介を拒絶するしかこの世界特有の暴力を逃れる手段はないと気づいている。

 この世界の暴力から逃れる逃げ道として、

 そのような防衛方法は消費社会にいる人間にとって精神衛生によい方法である。よい方法であるが社会参加には幾ばくかの困難もつきまとうわけである。

 それどころか、防衛手段を使い外界への警戒水準を高めすぎ「だまされない」ようにする戦略で疲れ切った身体が、精神疾患を発病しやすいのではないかということがある。これは中井久夫氏の「徴候知」の議論とも関わるのだが、この世界や自らの環境の欺瞞性侵襲性に気付いたものの有効な対抗戦略を立てられない人間が警戒レベルを保ったまま疲労していく。出典は忘れたが、中井は統合失調をマインドコントロールへの抵抗の破たん形態として考えていたように思う。


 自分の身体や感情を相手の意のままに操作されたくないという根底的な我々の自律の感情が深く脅かされている事情があるからこそ、私たちはそこから身を引きはがし己自身のニードにたどり着こうとする。
 そして、しかし対象世界を見失った者が、ニードを見失い、発病したり共同体から脱落するという事実がある。
 自らの課題としてそこからどうよみがえるかということ。

 さてそのニードとは何かということである。
 この世界で生きていけなければならない以上異なる生のモードを平凡な日常の中で模索したい。私は発病してからそれが一貫した願いである。
 なぜなら死の衝動に従って死ぬことを私は望まないからだ。

 私は詩を書いている。現代の世界において詩はコピーや言い回しやひねくった言語実験つまりはよくありがちな現代アートの亜種のような位置にまで下りている。

 一方人は音楽という形で音のついた言葉を消費し、味わっている。


 私自身詩を勉強のためにいくつも読んでみた。もちろんたくさんのすばらしい詩が詩を読まない人に知られない形でたくさんあるのだ。

 しかしそういう知識はここではどうでもよい。

 この間亡くなったお姑さんのことをある女性が書いた詩を読んだ。何の変哲もないが、お姑に対する思い出や思い出の中の声、好きや嫌いという気持ちがとてもはっきりと書かれていた。

 私は非常に力のある詩を読んだと思った。
 力のある詩は人を勇気づけ、安堵する。つまり芸術は操作を目指した時毒にもなるがその制御と相手のニーズが一致すれば、滋養になりうるのだ。

 力のある詩は経験を経験に沿う形で、つまりその経験の重みに適した最大限の努力と、最小限の言葉の数で書かれている。

 シンプルとかそういうことではない。そこにあるものを再び有らしめることを再現前といい表現なわけだが、なぜ私たちは自分が経験したものを語る要求にたどり着くことが出来るのかを考えた時私は多くの人々の言葉がまだ力をもっていると同時に、ほとんどの細工を施した言葉がつまりは肉声ではない言葉が命を失っている様に気が付いたのである。

 それはこの文章で最初に書いたことに近い。私たちは無理やり感動や欲求を引き出されることを喜ばない。福祉でもエンパワーメントという言葉がある。しかしこの言葉は誰かが相手の力を「引き出す」というようにあやまって理解されている。
 しかし、私はあえて自らが喜んだり静かにしたり悲しんだりするために、世界と関わるきっかけは何だろうと思うのだ。騙されたり自ら迎合するのではなく自らとしてニーズを表明し、この世界にいることを確かめていくことである。
 これは病を考えた時あるいは世界の危機に立ち会う人々の願いではなかろうか。しかしこの回路こそ今や寸断されようとしているのだと思う。
 そのニーズの確認。再記述。繰り返し。
 ひきこもりだろうと、詩だろうと、政治だろうと同じ課題に直面しているのだ。

 自然に涙が出てくるとかそういうことをいうのではない。感情労働や操作とはちがう次元で感情に働きかけるアート-労働の系を開くこと。自分がそう感じていい、大丈夫、自分の感じて経験したことをその通りに言葉にし、あるいはしない、あるいは商品にする、あるいはしないという自らへの、あるいは相手への赦し・あるいはキーロックを解除する方法を各人は持つ。
 権利やみずからの領分や境涯を大切にするためのアート−技芸−労働の作法
 しかし自分の生は自分の意識にとってまずは他人事、よそから来た「現存在」として「被投物」として与えられるのだから、その操縦の方法はわからない。
 私たちはさらに獣でもあるからそれを自分なりに養い育てる方法を学ばねばならない。

 本当はこういうレベルで思想は問われている。そしてそれは実は誰かが押し付けることもできるがそれは外的な威圧や現実から強いられる場合もあるだろう。例えば食物を食べなければならない場合食物を盗んだりあるいは交換したりするわけである。しかし人は多量の食べ物を目の前にして餓死することもできてしまう。
 であるから、誰かが押し付けるということよりも、より正確に現実や現象を知って、それに適切に対処することで身体を適切に作動させてある場合には体験から学び、自らを配慮していく必要がある。

 フーコーには詳しくないが「自己への配慮」という時にいわれていたことは己の生をどう活かすかということだったろうと推測するしストアの賢人や、近世哲学者が考えたことは、相手からの働きかけと自分の欲望の兆しのコレスポンデンス(照応)である。しかしじつは、この内界と外界の深刻な分離、自然的な接合や安心の喪失の自覚から近代は始まった。つまり近世哲学は、その危機への応答として心身が分離された状況の認識に立っているのである。その上での行動や調和や知識の構想であったろう。

 日本人の宗教には多数の宗派があり、仏教も諸氏乱立したわけであり、それを江戸時代は統治の技術に使ったり明治からは国家神道が深い精神の亀裂を我々に与えたわけである。
 しかしともあれ、仏教的な世界-自己の身体への理解や多神教的な自然理解やキリスト教的な科学が乱立して相倒しあう中で、私たちは外的世界と己の内なる世界の蝶番あるいは接合点を見失ったのである。

 しかし見失ったとしても、己の存在がとにもかくにも存在して、ここから現世の身への配慮を行うしかない以上、先ほどのような自己への配慮が世界とも関わる接合点あるいは離反する境界について語ることから、あるいはそこを意識して、問いを推し測って行かないと政治もできず、詩にもならず我々は共同社会の経済も運営できない地点に到達していると思われる。

 ここで問われているのはコミットメントだろうか。
 どうなのだろうか。各人の課題には行動に際し決定的な準拠枠が存在するのだろうか。

 「こういう時に自由になっていい」という条件などというものがはたしてあるのか。
 少しこの文章はおかしいと思うだろう。
 もちろん私たちは他人の存在をおもんばかりながら行動するしその連携の中に置かれる条件を持つ。しかしそれでも自分はこうしたいということをいう時に周りも聞く態度で接しない限り開始はないのではないか。
 その意味で。
 決定的な行動や自己理解の準拠枠を直に日々の中で問い直すという絶対的な地点に立つことがコミットメントなのであり、コミットメントは態度や優しさや単なる演技ではなく、事実なのである。事実なのであるが、それは強要したりされたりするようなものではなく、自らの要望の芽が出た時に適切な外部からの栄養が注がれたり注がれなかったりするそういう事実である。
 中東の動乱を見ている。彼らは変化しなければ危険であるという外的・内的な事実に貫通されて行動を起こしたのではないだろうか。国際社会の力学とそれを支える人々や世界の物質の流動それらがある均衡を超えた時変化への要求が外の回路との接続を求め始めたのである。
 この求め自体は我々日本人といくつかの経路の間接性はあってもつながっているのではないかと私は感じている。

つまり私たちが自らのニードをだましたり誤魔化したりすることなく、あるいはだまされることなく表出するさまを考えるひつようがある。それを見守る精神の態度、権利への意識、その権利を柔軟に自分の状況に応じて考える技術と知恵を我々は中東の人々共に絶えず試されているし、育てているのだ。