細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

限られた力で何ができるか。

昨日上山和樹氏(id:ueyamakzk)のはてなダイアリーをブクマしたら、id:lotus3000氏よりIDコールを頂きました。
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20101214

で、この問いについて考えてみたいと思ったのですがけっこう難しいです。
ので今お答えできそうなことは限られています。
上山さんの論じている文脈とずれるかもしれませんが。

      

lotus3000 形式を意識するうちにそのズレがめだち、そのズレを形式にとどめるか外すことで表現とともに私が作られるという感じでしょうか

そうですね。形式を「意識する」うちに「ズレ」が目立つという言い方でも悪くないと思うんですが。

例えば、ある仕事に入って仕事のやり方を覚えますね。一通り手順や先輩や周りの人に教わったことを仕事でやってみる。
成果が出たり出なかったりする。

周りに教えてもらった仕事の方法や作業のスタイルがおかしいんではないかと考えてみる。自分に合うように作業スタイルを工夫してみる。

こういうことはまあありますよね。

だけど例えば仕事そのものが持つフレームというか職人だったら職人で仕事を必死にやって、「あれこの仕事は自分にとってなんなんだ」とか「これは何のためにやっているんだ?」ってなると一生懸命やっていたことそのものが滑稽にあるいは「空しく」思えるときがありますね。もっといくと極度に落ち込んだり。

遭難っていうのはそういうふうに自分に生きられているスタイル(ここでは仕事)そのものに没入しているうちに懐疑や底なしの疑問が生じたり実際それが心身の失調に現れたり、あるいはどうしていいかわからないという状態になるかと思います。
そこでいろんなことをやらかしたりする。そういうことがあります。

で、仕事でもそれをやめるか、あるいは自分のスタイルを問い直す作業に入るわけですね。学びなおしたり方法を変えてみたり試行錯誤する。

そっからはいろいろ方向があると思うんです。
だけど仕事の場合はまだ自分で選べなくはないとしても(これも怪しい部分はありますが)転職したりします。

しかしそういう短期的なだけではない。しかし「生きる」ことが問われる場合、その生きる場所そこで自分が取りうるスタイルが問題になるでしょう。

人生とか生きる場合には多くは自分が選んだかどうかわからない場所に、生まれて、よくわからないまま教育を受け、あるいは習慣に頼ってそれを自分でも身に着けていきます。

そこで自分が親や周囲から教わったやり方、生き方、生の「スタイル」「形式」というものが通用しなくなる場面が多かれ少なかれ必ず来ます。

そういう時、自分は一つは読書をするようになったんです。で、世の中には自分が見てきただけではない世界がある。そこでモノを書くという文化があることを知ったのですね。で色んな本を読んで、上山さんの記事で引用されているように「私小説」にもはまったことがあります。

で、自分で一生懸命書いてみたりする。自分の身の回りのことを書くわけですけど書いても書いてもなかなか大変。あるいは我流ではわからなさすぎたので、詩の教室みたいなところに行っていろんな人の示唆を受ける。
けれども外側から与えられた形式をなぞっているだけではダメなんで、というのはそれでは書く理由がなくなってきます。

そこで書くのをやめてもいいんです。実際僕もいつもどう書いていこうかいつも悩んでいます。
というのはやはり自分にとってこういうのが「書く」だなと感じられなければ書いていても書いているような気がしなくなってくるからです。

その中でもちろん生活しているわけですからそういう生活のことも自分に有形無形の変化を与えているんです。

そんな中で自分の中に生きられる「書くこと」を問い直すことになります。だけど「問い直す」だけだったら、あまりに問いが無限に後退してスパイラルに入りまして、別にそこで書かなくなってもいいんですが、本気で迷っていきますと自己解体的になります。自己解体する力は歯止めがなく自分自身の生を食い破ろうとします。
それで実際に亡くなる方もいると思います。
ただ、死んでは困るとも一方では思うので、あるいは今は死ねないとか、そこまでいかなくても「書くことは止めたい」いや「今はまだ止めなくていい」と迷う。
やはり書きたいとしたらなんだろうかということが浮かび上がってくるまで「別のことをして待つ」わけです。

そういう時が書く、に限らず何かを懸命にやる人なら、程度の差こそあれ迷いのじ時期は来ると思います。
それがのちに書くことの肥やしに実はなっていたり後から気づいたりします。
だから「ズレ」を生きるとか葛藤を保持するというのが大事です。

気分が悪いですけど違和感を生きて、しかし気持ち悪いですからなんとか生きられるように自分の中の体制というか生きるために必要な編成を、あるいは生きられたスタイルを内側と外側、両面からアレンジするわけです。

人生でも同じだと思います。もちろん葛藤をそのままで保持してもその問いが保持するのに難しい。生そのものを上回る巨大さであるということがある。
そういう場合アルコール依存症者の祈りに「変えられないものを受け入れる勇気を。変え得るものを変える勇気を」みたいな文言があったと思いますがそれです。

一生懸命悩んでいても答えが出てこない場合、死にたくなったりして視野が狭まってしまいます。そこで「自分の悩んでいる生そのものはなるほど深刻な問題があるがすべてに今答えられない。だとすれば今答えられる、あるいはできることはなんだろうか」というふうに考えてみます。

そういう時に「生きるために」恐らく知らない間にどんどん方向が変わって自分でもなんだかわからないまま、ちがう方向に行ったりすることがある。迷い遭難しながらどこかへ漂着するように。

そういう体験をする時恐らく生きることのこれまでの方式、スタイルに縛られながらも違う方向に行く力を生み出そうとしているのです。
だからlotus3000さんのお言葉に沿うならば、もとの形からの様々な「ズレ」を通じて、その形式は変形を迫られたり、ズレによって新たな経験をするところまで行く場合には形式をあてはめることが難しくなり、それまでの自分から幾分か変わることはありえます。また自身が変形する過程である経験は忘却しある新しい感覚や経験が生まれるかもしれません。
(長くなりましたので下のエントリにこの先を続けます)

続きはこちら→続・限られた力で何ができるか−ICFの紹介というか自分の勉強メモ - 細々と彫りつける