細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

マルクスの経済学哲学草稿メモ

経済学・哲学草稿 (光文社古典新訳文庫)

経済学・哲学草稿 (光文社古典新訳文庫)

 
 マルクスの経済学哲学草稿をかなり読んだ。あともう少しで終わるわけだが、驚いた。今までマルクスについて抱いていた先入観はかなり覆された。その印象を書いてみる。忠実な再現ではなく、私による読書メモと断っておく。つまりこれはマルクスの本の内容を逐次書いた注釈ではない。マルクスの本はたたき台なのだ。マルクスの本を教義の書とするなら恐らく破滅が来るのではないだろうか。しかしそれはマルクスに限らずどんな本でもそうではないだろうか。なんども学びなおすことこそが大事なのだ。

 さて。疎外というと、仲間外れみたいなことかと勝手に思っていたが全然ちがう。それは自分の身体から自分の一部が引き裂かれるようなことが、他ならぬ、労働というものにもあるということ。寧ろ青年マルクスのみる労働は自分の力や在り方を奪われる、あるいは自ら明け渡すことをその本性としてもつものであるということ。つまり恐らくは人類は自己自身を殺し窮乏化させる在り方を組織的にとっていることに彼は気付いたこと。
 私は経済学者ではないが、恐らく後世に過労死やいくつもの精神疾患を誘引するファクターである労働の姿を(産業革命以降も見られていたのだろう)100年以上も前に見ていた青年マルクスの創見が感じられる。

 力点は労働以外の在り方を求めるというより、それ以上のものである。むしろ、人が生きる、活動するということそのものをそのものの大きさ、質を損なうことなく、人々の間で活かすということ。(注意すべきは疎外が人がなにかを「対象化」するということと連動していること。つまり目標を設定する、自分の考えを作品化するなどで、何かを自己の外へ実現したり設定したりする動きまで含まれている。対象化も我々の思考の習慣であり、それが支配的になると「目標に縛られる」という反転が起きてしまう。これはヘーゲルへの、歴史哲学=近代哲学による絶対精神の完成とその位置への固着への批判とも対応するのかもしれない)

 

 そのためには、人間の活動を精神か物質かという対立で理解するのではなく、自然の相のもとに包括的に捉えること。けして分け隔てることなく適切に「いきたもの」「私がそれをいきつつあるもの」(そして「私たち=類としていきつつあるもの)として解析すること。そうしなくては、私あるいは私たちの在り方はずたずたに引き裂かれ、また間違った癒着を起こしてしまうこと。私たちの紐帯は引き裂かれ、また奇妙な錯誤による連帯が生じてしまうこと。しかしこれはまさしく試行錯誤を通じてしか学べない体のものであるが、私たちの活動の本性をきちんと「事実に即して」(注意すべきなのはこの「事実」は即物的なものだけではなく、人間が生み出しうるあらゆるものを含むこと)解明すれば大きな間違いは避けうるということではないか。
 これがなぜ、「科学的」という名の元、圧制や統制を生み出したのかはしらないが、それがひとたび「疑われることのない善」として公式化されることで、どんなに驚くべき思想も死物として生者を圧する。これはマルクス主義だけではない。

 私やあなたが、本当の意味で生きるためには、己の主観性をこそ科学する必要があること。私がなぜそう感じるかどのように感じるかよりよい在り方を考えることなしには私たちは文字通り生きながらにして死んでしまうこと。
 
 生きながらに死す、あるいは生きて死ぬということに含まれる世界の全様態を噛みしめることができないままであるということだ。そうであってはならないということ。存在の全容を我々は「私」という個体を通じて生きる。私というのは、実体ではないが、大切なものであり、大切なものであるが、何かを媒介したり変換したりする通路でもある。私自身はこのようなメッセージをこの本からなぜか受け取ってしまう。

 この本は断片の集まりであるにもかかわらず「本気」の書なのである。論理自体は逆説的であるにもかかわらず。

 この本でのマルクスの「疎外」は主体や主観性そのものの成り立ちと深く関わっている。主観性を科学することは即ち他のものとの関わりや、世界が今あるありようを分析することと即応している。
 この時点で芸術と科学は二つなりに存在する二項ではない。なぜなら、例えば文学は殊に小説は、フィクションつまりお話を用いる。お話は単なる嘘ではなくそのような形で、現に存在する事柄に接近する変換装置のようなものであること。極めて小さい単位のものが顕微鏡を通してしか見えないように、特殊な倍率を使ってはじめてみえることがある。

 科学と芸術を分けて語ることも、一緒くたにしてもあまり有益ではない。どちらにしても互いを互いの疎外態として語ることになるからだ。科学と芸術、文系と理系などに相違があるとしても、それをまるでちがう「人種」として語ることは、自分を引き裂いてしまうものである。私たち自体には得意、不得意があっても、人間存在や自然の性質そのものが「文系・理系」「科学と芸術」といったちがいをもつわけではない。ということはアプローチの仕方が深刻に断絶しているということは我々が我々自身のあり方を深刻に裏切り引き裂こうとしている証左であるように思える。

 

 例えば言語や象徴、様々な表象を用いる芸術にとって、今ここにいる私を語ることは問題であり続けてきた。私が存在することは基本的に関係の網の目の中で働く言語や表象にとって背理とされてきた。

しかし私という特異点から語られ経験されることには、権利があると思うことなしに、実は社会も作動しない。「私」とはそれがまた新しい世界の基点になんどもなりうるものだから。学びなおせるのだから。

 もちろん私の思い込みだけでは私は破滅するだけだ。だから、私は他の人と共在する。しかし他の人と共に存在することが、己自身を破壊するならば、その共在のありかたは間違っている。

 私たちの社会は何かがおかしい。しかしそのおかしさは私自身をもひたしている。これがマルクスの直観ではなかっただろうか。

 寧ろ、私が私のあり方を裏切り、己を引き裂き、己の苦痛の実相に目を向けないことで、破局を迎えている。あるいは、つまり己自身の崩壊に(生物的死ではなく、精神-身体的死に)拍車をかけている。そのことで(つまり自分を本当の意味で大切にしないことで)社会の危機を進めている。私はマルクスを大幅に読み替えて、人間が共にあることと、私一個人を生きるその緊張の中に、危機と可能性があると感じるのだ。

 なぜこういうことをいうかというと、ずっと個人と社会が、どういう関係にあるか、そこを考えずに生きることはできないし、関係を考えることは関係に溺れることでも、関係に入らないことでもなく、関係に入ったりでたりできることだと思ってきた。しかしうまく考えることができずにきた。
 自分が独自な存在として、しかしそれが世の中の存在としていわば「交換され」「表象される」ことに躓いてきた。そこで、文学がある場合が役割を果たした。なぜならそこに言語が介在し、比喩や物語があるならば、それらはロマンティックなお話や道具ではなく、比喩や話法の変化自体もそれが「必然性」をもつならば「現実の諸相」を発見させる触媒になるとかんじてきたからだ。

 そのような触媒が必要な人もそうでない人もいるのかもしれない。しかし、文学作品を読者を「虚構」に導く作法や倫理をおそらくは鍛えてきた。しかし他の多くの分野には虚構やお話に導いてもそこから脱出させる方法や倫理を見いだしかねている。ゆえに我々の社会は、窮屈であるのかもしれない。

 必然性、その人にとって「こうでないと困る」という、命がけの次元での選択や不可避性がなければ理論だろうが作品だろうが、いかなる活動だろうが不朽性を獲得できるチャンスを持たない。つまり交換にも使用にも耐えるものではない。とはいえ、これは誰かを脅しているわけでも私が「ほんもの」だといいたいわけでもなく、権利上まともな仕事にはある位置が与えられるという歴史から学んだ直感のようなものである。


 なにか具体物や決定的なファクトがあって、その人の宿命や使命が決定されるわけではない。なぜかそうなっている。誰でも私そのものとして社会に立ち現れ、共有言語、流通する言語と私の事情との齟齬を噛みしめながら表現を鍛える。その意味で表現は「他なる場所」からもたらされる異言のようなものである。そのことを私たちは省察したり忘れたりしているのだ。

 いろいろまだ勉強せねばならない。