細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

「心の文法」を読む―痛みの体験構造や、医療の背景にあるものを考えてみた

心の文法―医療実践の社会学

心の文法―医療実践の社会学

読了した。
これからごたごた感想を述べることにする。拙文お許し願いたい。

なかなか感想がまとまらない上、いろいろな問題関心が出てきて収拾がつきにくい状態である。

正直に告白するならこの本に最初心因反応?ともいえるような拒否反応をしめしてしまい、ツイッターid:contractioさんを驚かせてしまったりしていたのである。
それは私がこの本を患者目線で読んだ時、医療現場を理論で分析する様子が妙に気になって、混乱してしまったのだ。「これは現場を理論分析に利用している」というような。
長年医療ユーザーである様々な心の澱が噴出したように。

落ち着いて考えてみた…

そしたら落ち着いてきて、この本はこの本として、医療や福祉の現場に対して一定の寄与をなしうるのではないかとそういう部分があることに気づいた。。。
というかナラティブだエビデンスだという話であれこれいうのもいいがこの本の取る道もアリだとは思う。患者・医療サービス利用者と医療者の治療や相談支援中の会話を分析することを通じて、互いがいわば治療現場におけるプレイヤーとなっている事実を指摘している面は、重要である。ウィトゲンシュタイン以降の流れを汲んだエスノメソドロジーの会話分析の手法を通じて臨床現場を記述・分析している。
そのことで、痛みや苦しみの訴えがどうやり取りの中で形づくられていくのかを丁寧に追っている。
つまりある面で当事者性のひとつの側面、つまり医師や看護師に質問し、質問され様々な言葉を交わすことで、気持ちを伝えたり状態を話したり、医療者に反発したり、従っていたりする姿があらわれているからだ。そのようにしてその都度、医療者としてあるいは患者として人はたちあらわれる。それは単純に固定されたものではなく、その都度の実践の中でなしとげられているということ。(もちろんこれが全てではないが)

いわば、当たり前のことであるがこの本は、患者がいて、医者がいなきゃ医療は成り立たないといっているように私には思えた。そしてそれはその役割に応じるだけでなく様々な発話行為を通じてそれぞれの役割を動かしているのである。
この主張は重要である。
なぜなら当たり前すぎて「顧みられていない」事実だからである。

医者が偉い、いや患者の権利が大事なんだという終わりのない綱引きだけではどうも現今の医療にまつわる諸々の事態はうまく解決できそうにないからである。

ただ、もっと重要というか疑問そして感想がある。

これがうまくいえないでいる。
この本は「痛み」をあまり「私秘的」に「心の中を覗く」ことで知られるものだという観点にこだわると、ふだん医療現場で行なわれているような、治療者の問診や診察を通じて、つまり患者とのやり取りを通して、痛みの所在を確定し治療するという事実性が見えなくなるという。

この歯の「痛み」というのは、他の誰でもない「私」に強く結びついている。だから次なる問題は、「痛み」にかかわる一人称的な結びつきの強さをどのような文法的位置において理解するかである。 
 だとするなら、ここで考えておかなければならないのは、「痛み」のような感覚が「私」へと帰属されていく実践のあり方である。ここまで示してきたように、経験の私秘性が根本的に前提しえないものだとしたら、「私の経験はかけがえのないものだ」という印象は、互いに感覚を帰属させあう実践の問題として記述されるのでなければならないだろう。P.61)

これはまずはウィトゲンシュタイン的な「私の痛みは私だけにしかわからないものか」という分析哲学的問題設定を引き継いでいるのである。
その解決の例として医療現場でうまく(あるいはまずく)患者と医師が相互にやり取りすることで、歯なら歯の痛みを治療することを示し、もちろん痛みの一人称的側面を大切にしながら、それを三人称的に共有して解決していくというふうになっている。(それは本書で詳細に書かれており興味のある方は直接紐解いていただきたい。)



然り。そのとおりである。そのとおりであるが何かが足りない。

なんだろうか。

まず第一の疑問は、私の痛みが「私秘的」になりがちなのは、痛みがある体験構造をなしているのではないかということだ。(これは医療実践のプレイヤーとしての側面とは少しちがうがその起点となる当事者性と呼べようか)これは素朴な観点過ぎて、もしかしたら「心の文法」の著者の議論にうまく接合しえない不安を残しながら書くのだが。もう少し詳しく言うならば、痛みが私だけのものと感じられるのは、痛みがあるショックの感覚であり、身体のどこかに「常ならぬつまり異常」な事態が起きていることを告げ知らされることだからだ。
であるから、その痛みは強い不安を引き起こすのである。

むしろ共有された日常から剥離されるような感覚、一人称性が痛みによって、呼び覚まされてしまうのである。これはハイデガー的な言い方で申し訳ないが(逆にいえばハイデガーウィトゲンシュタインとちがう方角から日常世界の分析を行っているのだろう。これは研究してみてもよいかもしれない)それが文法の中にどう位置づけられるかというウィトゲンシュタイン派の問題設定に私にはうまく接続できない。(個人的な子どもの頃の骨折体験や腹膜炎体験等を参照してみている) 

つまり私には痛みの一人称性は重要なものであり、それは医療実践がうまくいっているからといって解消されるものではないように思われるのだ。

もちろんそれを言語化したり身振りにして示すことでしか、他者に痛みは伝えられない。あるいは医師らが適切な質問や患者のいい直し、お互いの試行錯誤によって、痛みや苦しみの所在を確認し、それを緩和させようとするのである。

従って、この本が述べるように痛みの解決は、あるいは提示は医療現場での実践や他者との会話を通してあらわれてくるのである。
しかし、ショックな体験としての「痛み」「苦しみ」が他者に、(この本のいうのとは「異なる意味で」)伝えることができない、あるいは自分が痛みで孤立し苦痛に顔を歪めるということは人間が経験する重要な事態ではないかと思った。
つまり苦痛が「この痛みを感じているのは私一人だ」という深い自覚に人を誘うということは人間の言語や世界認識のある場合かくべからざる要素なのであると私には思える。(それは種類は異なるが喜びや悲しみや笑いもそうなのだ。それらも自分を一人にしたり他者と接続しうるものにする)
医療現場はそういう無数の呻きや断末魔、笑い声から成り立ってもいるだろうからである。

そういう苦痛に対する切った張ったの対応、そこへの眼差し、苦痛の体験者への眼差し、苦痛者からの眼差しこそがつねに動揺する医療実践を運動させ、不安定にさせたり、その意味を作り出させたりするもとだと私は思う。

もちろん、前田氏がそういう事柄に対する視線を持たないといいたいのではない。そのような呻きや断末魔、声を了解可能性の中に置くことが一定程度問われてはいる。
5章でいわれるように「心臓ペースメーカーが壊れるのではないか」という不安をもつ人に相談センターの人が「傾聴」を行なっても、うまく行かないケースが挙げられる。
なぜならとかく「心理的安定」がいわれるわけであるが、しかし事実を把握してそこから始めなければいけない。そのためには妥当な質問や会話によって相手の考えや情報が引き出されなければならない。このような場合適切な医療的助言が傾聴より適切かもしれない。
逆に

医学的な理由などから「助言内容」の変更の可能性が低い場合、相手の拒否の理由を聴くことと、その上で、「同じ」内容の助言を「受諾」してもらうことがなされなければならないため「傾聴」活動の重要性は高まる。(P136)

ウィトゲンシュタイン派の分析は限界確定を重んじる。本人にとっても整理しがたい「不安」をどう弁別しやり取りの中で解決可能なものに着地させるかはケアワーク実践としても必要なものなのである。
またいたずらに「着地」だけを目指すのではなく、豊富な実践から、様々な試行や齟齬を導き出し、それらの総体こそが医療者と患者つまり人間同士の営みにほかならないといっている点にも納得がいく。

しかし第二の疑問、私が感じるのは「医療実践」の背後には強力な「医学」という経験科学体系が存在するということだ。
ここで書かれているやり取りは非常に重要な事例で溢れているが、やはり「医学」あってのものだろうなと思われる。
医学は私の見立てでは「利用可能なリソース」のひとつに止まらないのであって、患者にとって手強く、非常に慣れるのが難しいものである。
医学は強力な専門科学体系であり今日広く受け入れられている。それだけに多くの人の不信も買う結果にさえなっている。

私も精神科医療で、医師は価値的規範的な議論にはかかわらないが、特殊な形で我々の生を方向付ける仕方をもっていると感じている。これは陰謀でもなんでもなく、ある特定の「健康」の形であり、精神医科学はその対象が非常に哲学的な問題である「心脳」問題を孕んでいる。
つまりよくある質問のように「薬によって脳の仕組みが変えられてしまいはしないか」という不安である。
この本は薬剤投与の問題まで踏み込んでいないのであるしそれはまずはある意味で賢明なことだと思われる。

私はもちろん「薬」は限定的な役割しか持たないと思っているが、それが身体の深部に作用していることは間違いない。
しかし心がいずこにあるのかということは哲学プロパーでも脳科学プロパーでも決着はついておらず、その決着のついていない問題の中で、神経薬理学的な作用をもつ薬が投与されていることの大きさである。
それも医療実践の日常である。
むしろ、精神科医療ではこの「投薬」にまつわる会話実践がある焦点を占めているといっていい。
自分も考えたい問題であり、この本でも失語症の例を出して、神経的な疾患に対しどういうリハビリアプローチが行なわれているかというところまで書かれていて、この章も面白い。

しかし私が言いたいのは、「身体侵襲」的な問題が医療実践には大きく存在し、その背景に医療の専門性というイシューが存在し、そこでこそ様々な問題が生じているので、この問題にこの本の著者はどういう分析を行なうのかということを僕の立場からは聞いてみたくなったのである。

なぜなら科学というのは我々の生活の中で重要かつ、非常に巨大な規範的な位置を占めている。この本もその存在が批判的に吟味されてはいない。しかし日々この医科学の常識が実践を支えているわけであり、そのことが患者の身体に常に作用しているわけである。

もちろん身体や生命は基本的に謎が多いから、そこに科学がなければ手も足も出ないのもわかる。
しかしこの本を読んで「ナラティブ」のような患者の声に耳を傾けるという立場が患者やあまつさえ医療者からも出てくるのか少しわかったような気がする。

私たちは私たちの日常の生活において常に科学的な言説との対話を行なっており、その影響がダイレクトに現れるのが、医療現場である。一日でも入院し、あるいは病院通いをしたならばそれが幾分かカジュアルにはなっていても以前、特別な緊張を持った場所なのである。

つまり「心の文法」のような捉え方は可能であり、必要であるかもしれない。そしてそれはある程度医療への誤解を解きうる(知解可能にしうる)かもしれない。
しかし病を生老病死のひとつとしてライフイベントとして捉える視点が出てくることも自然であろうなと思える。
あるいはもっと身も蓋もなく治したいと願い民間療法に頼るものもでてくるだろう。

それは私たちが医学を必要としているが、その医学に聞いてほしい反映させたい言葉を一般市民の多くがもっていて、その潜在的な要求や動揺がナラティブのような患者のライフストーリーや声を重視する路線としてあらわれたりするからである。
前田氏は、8章において医療場面において患者が自らの経験を語りだす場面を置いている。また結語において、「本書で記述された実践は一枚岩の医学的知識のみによって規定されるものでもなければ、一枚岩の日常生活を基盤にするものでもない。こうした実践は、医療従事者に専門性が求められるがゆえの難しさや、病者一人ひとりの経験の重さゆえの難しさに際立たされているが、それでもなお、そのようなものとして、私たちの生活の一部をなしているのである」といっている。

そうなのである。
ただ私は、「難しさ」や「重さ」といわれているものが実はその実践の全体系をひっくり返してしまうこともありうるように思えてならないのである。(心臓移植などの例)
事実医学がそのようにして形成されてきたということもある。
それは例えば現代では精神科医療やリエゾンであらわれるような「難しい」患者の形態を取りうる場合もあろう。

そして、一つ一つの痛みに対して、医療者は恐らく畏敬とおののきをもっているように思われるのである。それは「配慮」や「大切さ」といった範囲を超えているように私には思える。かつて心臓外科医の南淵明宏氏は手術前にかならず手術が恐くなる、それはなれることがないといっていた。これは「心臓外科医」という侵襲の大きい行為だからだけではないように思える。
精神科ではどの医師にも患者に自死された経験があるというが、こういう事実へのおののきがあるからこそ、いわばそのことを糧として医療者も日々の実践に生かしているように思われる。

これは医療を神秘化するためにいいたいのではなく、医療はそういう重みを持っているのではないかという私の直観である。
ここをうまく解明し、あまりに権威化させず、しかし大事な仕事として尊重する道があるのではないかと思ったりする。

また痛みや苦痛の身体をその前に投げ出す患者にも、自分の身体や心のことを訴える恐さや、様々な困難があり、もちろんそれらの総和として実践が成り立っているのを、前田氏はもちろんご存知であるだろう。
だからこそこのような本を書き、大切な分析結果を世に問うたわけである。
ただ私には医療実践には、限界確定の外である「語りえぬ」部分があり、それを中核として実践が形成されているように思えるのだ。
つまりそれを起点にして医療者や患者といったカテゴリーが出現する地点のことが私は気になっている。語りえぬことをべらべら喋る必要はないがどこまでが語る限界か知りたい。あるいはそれは我々の健康な「日常」とも関わっているはずである。
その「健康」とされる世界の領野を適切に把握したい。
医療を考えるならば健康も考える必要があるように思える。大変難しいが。
これはこの本とどう関係するかうまく描けないが、「苦痛の体験構造」とそれへの畏れやおののきといった倫理的な部分をいわば影の半球として、「治る」「治らない」という仮説的な分別があり、その上に治療実践がのっかっているという風に一医療ユーザーの私は実感している。ともあれ、そのような思索に誘われたことはこの本をおかげであることを記しておきたい。

なぜなら医療について様々な語り方があることは、患者から健康な人間への変化が気になっている私には示唆だからだ。
直接の答えでなくても。
私の思いは非常に実存主義風であり、流行らないアプローチなのかもしれないが、どうもそこに何かがあると思い書き留めた(なおナラティブも勉強が進んでいない汗)
人間が生命としてそこに存在することという非常にプリミティブな視点が重要であり、そこで感じられるものを大事にしたい。
そこに対するアプローチがあって、それとうまく連動する形で言語分析がほしい。しかしそこにたいするヒントはこの本ではあまり得られなかった。
恐らく本家のウィトゲンシュタインは、カントから(あるいはヘーゲルショーペンハウアーキルケゴールへといたる意志論や倫理の流れをくんでおり、そこが気になっている。しかしその研究も出来ていないため書かなかった。

最後にこの本で個人的に示唆された部分をあげておこう。

ここでホックシールドがあげた親子の例を少し見てみよう。たとえば、躁鬱病と診断された病気の治療から退院してきた父親に、悪辣な欺きのような行為を告白された、ある息子の例がある。この息子は、ほんとうに許したい、愛したいと思っているし、またそのように感じるべきであるとも感じている。けれども一方で、欺かれていたと感じ、またそのことに怒りも感じている。この息子は、父親を許すことができず、かといってただ単に怒るということでもなく、むしろ「愛するという義務と戦った」。ホックシールドは、この息子について、「彼は感情規則をかえなかった」のだと説明しているのである。(Hochschild 1983b:69-70=2000:80-1)(P.97)

なぜか非常にこの部分はとりわけ届いた。その後の前田氏の記述も響いた。自分に近いものを感じたのだろう。