細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

「よくないものなのにそれを必要としているとすればその意味は何か」−石川良子『ひきこもりの<ゴール>』読了

私はこの本を読んでよかったと思う。下手な小説やルポを読むより、その渦中にあるものの声が伝わってくる。

ただ私は研究者ではない。ひとりの悩んでいる人間として読んで、そこからいかなるものを得られるかということを大事にしたいと思った。この本はつまりはスティグマでいうならそれをどう「パッシング」していくか「通り抜けて(くぐりぬけて)」いくかということが主題だと思う。

もちろん制度や、それへの提言も大事でありこの本は十分既存の「ひきこもり」言説への批判になりえている。当事者中心がどうたらという理念よりも時間をかけてその渦中にあるものの言葉を重んじることの必要性。そのことをこの本の中に見ることができる

この本で一番いいなと思ったとこ。

FさんとGさんのライフストーリーからは、次のような示唆が得られる。まず、両者ともに、時間をかけて深く内面を掘り下げ、その過程で?はたして自分は生きていくのか。生きるのだとすればどう生きるのか?という問題に向き会わざるをえなくなったことを語っている。このことは、当事者が直面しているのは(もしくは最終的に行き着くのは)?<社会参加>する/しない?ではなく、?生きる/生き(られ)ない?という水準の葛藤であることを示している。
ここから、当事者にとって基底的な<意味>として、生きることの意味を位置づけることもできよう。
 だが、FさんとGさんが最大の転機として語ったのは、生きることへの意思を自らの中に認めたということであり、それがいまに至るまで大きな支えになっていることがうかがわれた(たとえば[7-3]参照)。ここから、生きることを覚悟するといった<意思>を認めることが、<意味>以前に必要なものとして位置づくのではないか。前章でみたCさんの語りを見ても([6-28][6-29][6-30]参照)、「生きていくしかない」という<意思>を起点として、生きることや働くことの意味が編まれていったことが読み取れる。つまり、前章の最後に提起した問い-何を確かめることができたときに、当事者は社会に踏み出していけるか-に対しては、生きようとする<意思>がその答えとなる。

 とはいえ、もちろん「生きようとする<意思>」を自分に内在的に確認することの意義というのは認められたとして、そしてそれが私たちが社会をサバイブすることへの必要条件だとして、それをいわば周囲のものとの関係性の中でも承認され、機能できる必要がある。これは積極参加だけをささない。この本でも示唆されるようにひきこもりというカテゴリーを必要としなくなったからといって、「鉄のような健常者」になるわけもない。それどころか履歴に空白があり、様々な意味の経験をしてきたことである意味弱っている部分もないとはいえない。逆にそのような経験をした強みも考えうるが。
 逆に「鉄のような健常者」にはなれない、それはありえないという地点に(私自身)も立っているように思われる。世間にいる人と例えばひきこもりを経験したものとを分断しない。しかし「健常者」へのリハビリといったものの「仮構性(フィクション)」も認識する必要があろう。そのように「戻る」地点は虚構であり、経済生活や生きる意思が回復されるためには、「戻る」という地点の構想は有害かもしれないとすら思うことだってしきりにある。(しかしこの思いにも自信がない)

 また「生きようとする<意思>」を自己に発見することは、その人の経験から発露したことだと思う。それはネガティブな経験、ポジティブな経験から学び自ら身に浸みた辛さを知るからこそ、そこから脱出する契機をつかむようなプロセスなのだ。
 その際「ひきこもっている」という状態や、社会にある「ひきこもり」という属性を自らに引き寄せ、自己規定の中に入れ込む。しかしそれは「別枠」としてかろうじて身につけた属性にすぎず、それは非常につらいものでもある。身を拘束するものでもある。
 つまり自分が自分の苦しみを説明するために必要とした属性が今度は自分を縛るものに変容している。私は精神障害というカテゴリーもそうだと思う。ひととおりの保護を受けるのに必要なカテゴリーではあるのだが、(というかほとんどそれしか強度の情動的な恐慌の状態を正当なものとして周りに認めてもらう手段はなかった)それによって周囲のものから別枠のものとして認知されてしまう。それは一時的に必要なことだが、例えば「精神障害」の属性にそぐわない元気さや、その位置を抜け出したり確かめようとしたりすると途端にそれは「治った」と見なされるわけである。
 そうするとなんの居場所があるわけもなく、それどころかなんとなくよそよそしい「世間」が広がっていて、アクセスするのに抵抗がある上、事実難しいようにも感じられる。
 つまりこれは相互作用類やループ効果とどの程度関わるかはわからないが、あるカテゴリーにしたがって自分の経験や知識を整理する段階の次に、やはりその通過儀礼が終わった後はそこから徐々に去っていく段階がある。つまり単純にあるカテゴリーが、あるカテゴリに立つものやその周辺の言説や知識の状況を変えてその循環がずっとつづいていくわけではないのではないかと思う。しかしあるカテゴリーが成員を形成し、その成員の知識や行動の変容がそのカテゴリーを変化させるように孤を描くとはいえるわけで、石川良子氏の本もひきこもりのループ効果の検証になっているとはいえる。ただ石川氏の関心はそこにのみ向うのではなく、そのカテゴリーからの離脱までが追われており、またそのアプローチはその人の語りの聞き取りという意味で物語性をより重視しているとはいえる。これは人が意味体験をどのように形成し、それがその本人においてつかまれていくかに石川氏がより重要性を置いているからだろうし、その個別のケースを通して、社会化や人々の社会性のありようを透かし見ようとしているからであろう。この本でひきこもり経験がそこから離脱していく人を含めて語られているとすれば、その全過程を語ることに大切さがあるのだ。ひとまずの危機が去ったからといって危機はおわらない。いわゆる周囲から「ひきこもり」「障害」からりだつしていくとして普通に考えれば、自分の弱さとの共存しながら、世間ともあい渡っていかねばならず、ここも立派に大変な作業なはずなのである。その重要性をきちんと語っている上でこの本は信用にたる。
 つまり一度何か不適応な体験をしたらば、それがどんな経験であれ、その経験者はちがうパースペクティブに立つ。ならば、病気から回復して、あるいはひきこもりがすべてちゃらになって、一般社会に戻るというモデルとはちがう適応のスタイルが必要になる。
 ある場合には不便で、抑圧的な社会を病気の時よりは冷静に眺められる反面、病気がひどい時とはことなる感情を社会に対してもつわけである。それはいってみれば迫害されているのとはちがうが、奇妙に居場所のない世界といった感じである。それが気のせいであるとはどうも思えない。しれっとした顔で戻るのがどうもおかしいように思われる。では病気になったことは単なる脳の不具合のようなものだったのだろうかということになる。いやそうではない。今目の前にある世界とかつて葛藤した経験はどこへ行くのだろうかと。それは病気の間に幾分か修正されているとはいえ、しかし自分と身の回りの世界の間で生じた違和は恐らく自分にとって、それほど事実として変わっていないはずだと。
 それがどのような感情かということは私自身いまその最中にあるためうまく説明できない。しかしそれはある部分では他の社会の成員と何ら変わらない。しかしながら、それを何週か回って新しく学びなおすような、そして学ぶ私が周囲の知識や応接の体系にある変更を迫るような、非常にクリティカルな位置に立ってしまうのである。それをひとしなみになったというのかもしれないが、別に自分が偉いというつもりはないが、なんかそういうのとはちがう感じなのだ。
 つまりあの時、発病したり、おかしくなる以前に変えがたかったものが一旦しんどくなった後、もう一度それに向かい合う感触。。

 さきほどクリティカルという言葉を使った。普通「批評的」として使われるが、医療用語では「臨界、危険、緊急」といった意味を持つ。上山和樹氏(id:ueyamakzk))は臨床的=crinicalという用語を使う。これはベッドサイドに臨むという原義を持つ。(私は介護をやっていたことがあり病気にもなったので医療に対する少し細かいこだわりがあるのでなかなか使えないが)
 臨床という言葉は非常に医療周り的な用語なのだが、上山氏の相互批評的な提言からすると、ふつうに「批評」という言葉でもよいように思うが、これはこれで文学的な臭みをもってしまうので上山氏は苦手かもしれない。
 ただ何らかの限界あるいは際に立つものとしての視点に立つということであろう。臨床はある危険な状態にある人の傍らで感じられる様々なものを感得するという意味がありこれはこれで非常に意味があるだろう。

 私が想定するcritical。単にあるものを構成されたものとして例えば障害者や狂気という概念は、そのように作られたあしきものであるというふうに捉えるだけでは足りない。なぜなら生きる苦境を説明する時に「障害」がまさしく用いられることを考えれば、観念論的に概念を批判するだけではあまり意味がない。
 つまりその概念が何の必要があって招来され、個々人が使用しその概念に作用されているかを考える必要があるのである。つまり一見よくないものでも、なぜ必要とされ逃れられないかに批評的な意味があるのである。批評や批判はわれわれが存在する限りもってしまう限界を意識するものなのだ。カントの「批判」はそのような意味で使われている。(ウィトゲンシュタインも「論考」はその方向にある)
 そこにはかならず現在の社会が持つコミュニケーションや制度化の困難の徴が刻印されているはずである。
 ある「ひきこもり」や「精神障害」という概念はある社会の困難から出てきたのであるが、それがその困難を解決するより、固定化したり新たな階層化を生み、その脱出口が見えないのがポイントである。そこにメスを入れなければいけない。*1
 これは酒井泰斗氏(id:contractio)が紹介してくださったハッキング*2の本を読んでいても感じたことである。ハッキングも現在存在する概念を批判するのはいいけども、今ここでその概念が端的に必要とされ使用されている現状も重視せねばという。まったくここは同感なのである。(しかしこの観念への批判と、実態への視線はうまく両立させるのはなかなか困難)
 例えば、ひきこもりや精神障害に対する「政策」を想定する場合、その対象者を同定するカテゴリーが法策定に重要に成ってくる。しかし日本の障害福祉施策の多くは、対象を同定する、つまりオブジェクトを確定する作業から始まっておりそれが恐らくはある階層の固定的な不遇を生んでいるのだ。つまり日本の福祉施策はかなりマシになったが、悪循環的なループ効果の意味が大きいのではないかと思ったりしてしまう。
 支援の法律や施策を考える時に大切なことは、ニーズや現況を知ることであり、その動態において捉えることであり、静態的に対象者を同定するというのは、人道的にも方法的にもすでに問題が多いといわねばならない。

 べーシックインカムで幅を利かせてしまっている俗論も、選別しない給付のところを、ただ一律に給付される面だけを強調し、いまここにある差異やニードを消去しようとする議論が横行しているように思える。

 つまりは多くの場面で差異をその実態に即して捉える、あるいはもっとつっ込んで、その差異や処遇の違いに異議をとなえる批判(批評)的な営為が衰退しているといえる。
 また違いというものをケースバイケースで柔軟にまた限界確定的に仔細に捉える作業が必要である。それがなんらかの実際の事情によって、その違いのもたらす様々な効果により、あるいはそれが個々人の意識にもたらされる影響によって、病者は病者であることを卑下したり、傲岸になったりきわめて不安定なアイデンティティの状態に置かれる。これはそのひとが単に被害者だからではなくて様々な複雑な状況の影響を受けているというふうに考えたほうがよく、その状況を改善しなければ例えば病気の改善すら覚束ないのである。

 さて相当脱線したのだが、いまここにあり、移り変わり続ける私の位置で、様々な批評的観点が成り立つのであり、私がいつもいつもビビッドで批評的ではありえない。当然である。私は障害や病気という体験やカテゴリーに現在は非常に重要な問題を見つけている。とはいえ、それはそこから自分の血の通った経験を通して学んだことを敷衍していっているからなのであり、自分を何かの代弁者としてだけ仕立て上げて、なんらかの当事者としてなりあがろうとしているわけではない。それが分かりやすかったらそうするが、しかし「精神」の上映会の意見交換でも以前体験したのだが、多くの人は病気体験に重要なものを見いだしており、しかし同時に病者は「我々とはことなる体験」をしていると過大視してしまっている。そのような状況下で自分は病気になったことがあると、多くの面前で自己紹介することのなんとリスキーなことであり、それはただの見世物でありなんら批評的効果がないのである。また普通に私を見てもあんまり病気っぽくないし、もっとしんどい人が働いて!いたりするわけである。
 これはそれぞれが自分の生を材料として思考することを抑圧しているからだと思う。だから当事者の特権化=「彼らは生きた体験をしている」が生じるのであって、今のところ病者でない人たちの「解放」が重要ではないかと皮肉にも思うくらいこの社会は、ある面で障害者でないひとにも抑圧を繰り返してきたのではないかとかんぐってしまった。

 石川良子「ひきこもりの<ゴール>」を読んでいろいろ感じてとりとめがなくなったがいい加減締めなくてはならない。
 この本は、ひきこもりの経験者がその後どのような未来を構想するかに一番苦労しているという面に焦点を当てている点が有意義である。つまりそれを動的な経験として捉えている。それはどれだけ元気になり、人と話せるようになり、就労しても自分自身が生きていく主体であるという感覚を取り戻さないことには、その解放は目途を立てられないことをしめしている。これはあらゆる不遇の経験、わたしのような病者の経験とも通底する解放の目標なのである。
 しかしそれが果たして単に「生きる意味」の再発見だけに落とし込まれてよいかというと議論があるだろう。ただ、そこが始まりにならなければ社会経験もへったくれもない。空洞化した絶望の生であっても働いているのだからいいとは我々は直感的に思えない。また働いていることの経験を充分にその滋養や意味をこの社会は再発見する必要がある。そこまで行かねば、ひきこもりの解放も何もないわけであり、保護と突き放しだけが横行することになるだろう。
 少子高齢化の中でその兆候はますます強まっているというべきである。
 最後に強調しておきたいが、この本がその表現がどうあれ、「自ら掴み取る生きる意味」に焦点化していることは、いくつかの限定をつければ全く普遍的なものに肉薄しており、その成果はただひきこもりのみならず様々な人に感銘を与えると思われる。

*1:反精神医学も方向として反体制のようなロマンティックな方向に誤解される余地をもってしまったが、我々が今体験する困難からの脱出を企図したことは間違いない。そうレインの著作を読むと思うのである。いい加減欠点を差し引いた上で、反精神医学をしかるべき捉え方をする必要がある。がこれは急務ではない。

*2:何が社会的に構成されるのか