細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

示唆を受ける。

三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)

三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)

大阪と沖縄の講演を読んだ。第一章も読み中である。大阪の講演でガタリはいわゆる「詩」にかなり期待している。これは驚きだった。でもハイデガーも現代の文明に対し絶望的になりながらも詩に期待をかけていたことを思い出せば不思議ではない。ただ、ガタリの場合は、おそらくヘルダーリンの詩がどうこうということじゃなく、今ここにある「私」が他と孤絶し孤高になることではなく、むしろ今使っている言葉や状況を使ってそれを編みなおし、固有の生(それを主観性と呼ぶ)になることで、他の存在とつながっていくあり方を考えていたのではないかと思う。
日常性に変化の兆しを見いだし、変化の中に居場所を見いだすみたいな。詩には特定の形や必要な道具が少ないので、彼のいう「精神的・身体的・社会的」な環境汚染から身も守れる。
こういう読み方は安い読み方なのかもしれないが、ハイデガーがそれを恐らく慎ましやかな生存という多分にキリスト教的な倫理の中に「詩」を置いたのに対して、ガタリは自分の経験自身の編みなおしとしてそれを考えていたと思う。それは新奇な改革ではないが、自分や他の人たちに働きかける中で行なわれる意味では、それぞれの生が変化することで世界が変わることを目指したともいえる。

ただ、ガタリはどうも言葉が難しく、また愛想のいい活動家の面もあり、捉え方が難しい。ただ「practice」の中にある人はそういう臨機応変さも必要だろうとか。
いま

経験の政治学

経験の政治学

も読んでいる。社会的現象学と(それは直接ではないが思想史的にはシュッツを通じてエスノメソドロジーにつながる日常性の科学)いったりする部分や精神療法の改革を訴える運動家の部分やナイーブな詩人的なセンスが混在していてなかなか興味深くある。
エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

1,3,4章は読んで残すは、2と5章の半分と6章である。受刑者コードには受刑者と、施設職員の織り成す言語秩序をゲシュタルトと読んでいたり、ホッドロッダーでもマイノリティの(当時の黒人や女性)政治に使われるカテゴリーと対照などもあり丁寧に読めば、「使える」かどうかはわからねど、様々な社会領域の現場の営みを考える上で、直接的ではないが参照枠になるアプローチにも思えてくる。
もちろん科学というと身構えるのだが、その身構えについてもガーフィンケルは司法の素人である陪審員が、専門の法的な言葉にどうコミットし、使用しているかをみて、エスノメソドロジーを思い立ったといっている。この問題設定は、裁判員制度など市井の我々がどう自分たちの社会の意思決定に関われるかを考える上で示唆的な気もしないでもない。

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