細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

以前のエントリで

以前のエントリドラマの不毛地帯をみたら/祖父の - 細々と彫りつけるでタイをフランス領としていたが大変な誤りであった。今日のエントリはそのことを追記する。タイはその当時独立国であり、フランス領インドシナとイギリス領にはさまれていた。

タイの歴史 - Wikipediaより引用。

第二次世界大戦
プレーク・ピブーンソンクラームが実権を握っていたタイは、1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した直後に中立宣言を出していたが、しかし1940年に日本軍が仏領インドシナに進駐すると、ピブーンソンクラームはこれをすぐに翻し、1940年9月10日に仏領インドシナと国境紛争を起こした。国境地帯において、タイは旧領回復のために出動し、11月23日にはタイ・フランス領インドシナ紛争でフランス軍との戦闘となった。1941年5月8日に日本の仲介により東京条約を締結し、仏印の一部を自国領に併合した。
アジア地域に拠点を欲していた日本はタイへの接近を図った。1940年に日泰和親友好条約を締結。その後1941年12月8日にイギリスやアメリカなどの連合国との間に開戦した日本軍が、イギリスが支配していたマレー半島ビルマへ向かうためタイ南部シンゴラ(ソンクラー)に上陸すると、タイ軍は小規模な戦闘を行った。その後はタイは日本軍の通過を認めた。こうした日本の圧力や、日本軍の緒戦の勝利を背景として、1941年12月21日には日泰攻守同盟条約を締結し、日本の同盟国となった。
イギリス軍も日本軍と同じ頃にマレー半島側から侵攻しており、タイ警察が交戦していた。その後の1942年1月8日にイギリス軍がバンコクを爆撃したのを機に同月25日、ピブーンソンクラームは中立政策を完全に翻しイギリスとアメリカに宣戦布告し、タイは枢軸国となり参戦することになった。

日本がタイを通ろうとして、それを知らなかったタイ軍と戦闘になった。それはマレーやビルマ侵略のためである。後にタイは枢軸国となる。
タイの人たちと、祖父らはなぜ戦ったのかと考えると不条理感は募る。

局地化した、あるいは個々の運命と、その当時のインドシナ半島、ひいては世界情勢の引き裂かれみたいなものを丁寧に見る必要がある。
それぞれは全体の中でコマのように指令に従っているとついつい我々は想像しがちだ。しかしその個々の様々な運動やその錯綜、絡み合いから逆にそれが巨大化し、流動化して歴史は生れていると考えることはできないか。

もちろんヒューマンドラマのようにひとりひとりの命が大事というメッセージではもうあまり意味をなさないように思う。しかし自分は様々な諸関係の束であると意識しながらも、しかしその場所に立つ自分は何なのかをつねに思い起こすような感覚もなければ。
民主主義や正義というものがひとりひとりの良心にかけられるということだけでは厳しい。なぜなら歴史において拷問や洗脳という技術は、さまざまにあらわれるからだ。
ひとりひとりでは弱い。ひとは関係の中に生きる。かといって、つながりが桎梏になる場合、それがどんな美しい、あるいはプレーンなつながりであろうが、誰かにとっては地獄である。学校、会社だけではなく、つながりというつながりの中に、違和感の目がある。その違和感は、排除されるべきものではない。むしろ擁護されなければならない。
どこかに排除があるからこそ、被害者意識は発動されるのではないか。そしてその被害者意識が新たな排除を生むのではないか。
被害者意識を嗤うのではなく、丁寧にその核にあるものを聞き届けるのがいいと私は思う。
とはいっても、おおむね妥当な意見調整というものも常に考えておかなくてはならないが。また、関係の中で、人は生きるし、力を与えられるということも忘れてはいない。ただ、関係から飛び出したり、脱落したひとがどう、生きることの手応えのようなものを取り戻すかということは、ひとえにリハビリテーション、社会参加の臨床のみではなく、ひとの生存のあらゆる場面でいつでも反復して問い直される必要がある。問題にしない、そっとしておくというだけでは、越えられない問題が複数ある。ひとはいつでも関係を更新してゆく必要があるのである。それは肉体が新陳代謝を求める如しである。戦争はそのような新陳代謝が絶たれたと思いなされたときに台頭するものなのではないか。

戦争は絶望や倦怠からの、一発逆転的、跳躍的な超脱を狙うのである。テロリズムもそうかもしれない。根源にあるのは、なんらかの絶望である。この絶望は人間の生の条件の根本に極めて近いところにあるものだろう。戦争の危険を避けるにはそれをガンジーのように読み替えることかもしれない。以上メモとして。