細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

空気人形

この映画を見たのだが、なんか感想めいた感じの文章にもならないし、かといって嫌な映画じゃなかっただけになんとももどかしい。
もどかしいけど、嫌な感じでなく、いい感じさえするのだけどどこかすっきりはいかない。
吉野弘の詩が出てきたことはまず伝えておこう。

主人公のぺ・ドゥナ演じる人形が知らないおじいさんに教えられた詩として。この詩をナレーションでぺ・ドゥナが読む。朗読の出てくる映画は久しぶりだ。

生命は 
       吉野弘

生命は
自分自身で完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする


生命はすべて
そのなかに欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ


世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思えることさも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?


花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光りをまとって飛んできている


私も あるとき
誰かのための虻だったろう


あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

この詩は良い詩のようにも、なんとなくちょっとしたくどさを感じるようにも思う。ところどころ、そうかなあ?そうじゃないような気もするが、それをどう話していいだろうかと途方に暮れる。

すごくちゃんとした詩で私のようなチンピラの書き手が文句を言える代物ではないのは承知で言うのだが。

そうだったらいいような、願望と世界の実相がかみ合う詩のように思う。願望というといいすぎだが、「そうあってほしい」世界のありようが「そうあるはずだ」に摩り替わってしまっている感じ。が、そういうふうにはかみ合ってないから、世界と私の関係性がなんとか保てるんじゃないかと思う。そしてそのもとにあるのはたぶん「欠如」ではない。

確かに孤独な人間や生き物同士がその孤独を補うように存在しあっているように見えるときもある。しかしその孤独は欠如なのだろうか。

孤独。privateの語源は「奪われてある」ことだと聞いたことがある。たしかにそこではうばわれ、何かが欠如しているように思われるために欲望が生成し、欲望はその一人で完結できないために他者を招来する。

ただ、しかしそうだとすれば、空気人形は始めから他者の欲望で満たされているという言い方もできる。
逆に他者の欲望で満たされるから苦しい。しかしそれは「代用品」という言葉とは微妙にずれてくるように思う。

「代用」ではなく、他の孤独の「代償」にされたから、この物語に登場する人々は悲惨なのである。

あるいは「相互依存」という言葉がある。Aに求められるBもまたそのAを必要とするように。

「欠如」に気づかず生きていても調和がとれているからいいとか、あるいはそうではないという様々な構造とか意識みたいなものが組織されてしまうと、もうちがうのだ。そこで「相互依存」とか「意図しない調和」があるように思いなすことは何かこの映画に過重なメッセージを付与する。



詩が映画がそんなにうまく作られてしまっては困る、ような。


そしてたぶんこの映画「空気人形」自体もその「かみ合い方」が私を落ち着かなくさせる。メッセージとして伝えたいことを、その映像にがっちり反映させるやり方。さりげないが、なんとなく窮屈ではある。


もっと伝えなくてもいいし、意図がその結果と結ぼれていないということを大事にするということ。そのきっかけはこの映画の中にすでにたくさんある。たとえば人形がめざめたときに見て触れる軒先の水のつぶだとか、おじいさんの実存だとか、椅子だとか、ある女性のストッキングの線だとか、人形がつぶやく「太陽がいっぱい」などの映画の名前だとかラムネの壜だとか。
もちろんそれがぺ・ドゥナという稀有な存在感をもつ女優だからすばらしいともいえるが、取り巻く様々なものが荒廃していてもそこにあるだけで夢のように美しいため、そこから幻想があちこちに存在し始める。

その幻想は「誰かのための風」ではなくはっきりと「誰のためでもない風」がもたらすものである。たまさか誰かのもとに来たものだ。それが所有され私有されることから、また僕らの視野から外れていく。本当はそういう「旅」を描いた美しさがある。この旅はそこに現象するがずっとそこに留まることではない。そういう意味で吉野弘の詩が意味してしまっているような「願い」や「調和」は目指されていない。

吉野の詩はもしかしたら僕がいうような「旅」を描いているのかもしれないとも思い始めた。でも、そこには潜在する予定された調和のようなものが、さりげなくすればするほど、雄弁であるように思う。

この詩の立つパースペクティブとははっきり袂を分かった地点で、この映画は生きようとしていたように思えるから。しかしこれは私の好みというか偏向であってやはりうまくいえているとは思えない。

私は自分が束の間この世界にいるということをどう考えたらいいだろうか。それを考えると急に心細くなり執着さえたくさんあるわけだが、しかしこの映画も吉野の詩もそれと変わらない地平でかかれているのかもしれない。私はまだそれを学び始めたばかりだ。

しかしやはり「代用」という言葉がひっかかる。「代用」といってしまった時点でやはり明らかに「自分は何かの変わり」といわれている。自分はずいぶんそこで悩んでいたように思うのだが、問題は何かの代わりであったりすることではないのだと思う。そこに簡単に「自分」とか「代わり」という言葉を代入してはいけない。もちろん何かであてがうのだが、そしてじぶんもそこに何かをあてがい続けてきたように思うが。

その罪深さを思いながら、しかし、このことを「代用」とか「欠如」というフレームにいれて語ると、どこかで現にある「切実さ」が急に色あせてしまうように思えるのも事実なのだ。人形とは、その「切実さ」をあるフレームにいれてしまったときに生じてしまう偶像化のことなのではないか。

でもその「人形化」みたいなものにも涙が血がにじみつづけるような苦しみがある。しかし私はそれにずっと逆らってきたかったのだと思う。


むしろ簡単に形を与えない粘り強さが大事なのではないか。吉野の詩ももしかしたらそのような試行錯誤の道の半ばにある詩なのかもしれない。

※18時ころ大幅改稿。