細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

精神科のブログ

 最近このブログを読んでいる。
http://ameblo.jp/kyupin/

うちの先生と処方や対応の考え方にはけっこう違いはあるが、精神医学の医学というか医療の医療たる姿を感じる。かつて中世ヨーロッパでは、外科手術というと縫うしかなかった。麻酔技術もほとんどなく、細菌や感染症のメカニズムも把握されていなかったため、文字通り切ったり張ったりしていた。つまり傷口を針と糸で縫うのがうまい人が外科医だったのである。町の中にかならずそういう人がいて、傷口に化膿や感染症が起こって死なないように祈りながら手術をし、受けていたのだと思う。散髪屋の回転ポールの赤・青は動脈・静脈をあらわしていると聞いたことがある。

 精神科といっても、その本質はまずは応急処置・状態の安定・改善である。これは外科や内科と何ら変わりない。また患者の状態に対しどういう見立てをするか、どう治療法を工夫するかも同じだ。
 しかしちがうのは、精神現象をつまり心を発生させる、脳にアタックする薬剤を使うことである。ある人の心は、その人が社会とどう関わっているかというキャラクターつまり個性と深い関わりがあり、その人がその人であるように振舞うもとになる。逆にいうとだからこそ、多くの人が、治療によって心を変化させられるとか、そういう見えにくい不安をもつ理由がある。

 このブログの医師はECTつまり電撃療法を深く難しい症状では使うことがあるという。この治療には、賛否様々があり、私自身、この治療は恐いものではないかと思ってもいる。だからこのブログを読んでもその印象は大きくは変わらない。だが見方は少し変わった。それはこの先生がもつ電撃療法に関する考え方に何か興味深いものがあるように思ったからだ。

 強力な自殺念慮、あるいは深い昏明など、ほっておくとその人の生命や生活の質の根幹に関わる事態で適用されているということだ。他にいい治療がないということと、薬物では一挙に場面を変えることが難しくその間にその人が命を失いかねない場合だ。
 医師は命に関わる時、やはり死なれたら辛いという面もある。しかし安全性の議論は様々あるので、慎重に考えなければならないが、こういう医師の考え方もあるということは認識しておきたい。

 もうひとつ、薬物療法における多剤併用に対する考え方。薬はひとつひとつそのパフォーマンスつまり薬理作用やパワーに差がある。それに適用される個々の身体の個性も様々である。その際に、トライアンドエラーであるということ、だからこそダメージよりその人の生活の質の全体的な改善を考えて、ブリコラージュ(器用仕事)的に組み合わせている。もちろん患者さんに負荷を与えすぎる併用はいけないのだが、その組み合わせ方・量の調節と患者の身体の反応が合わさって深い治療効果がうまれるということだ。だからいたずらに併用を否定していない点。つぎに多剤に関してだが、これもその疾患がもたらす苦しみとリスクに対して、その人の身体に対する負荷を考慮している。ということが書かれている。つまりあんまりひどい症状だと強い薬効が必要な局面があるため、多めの処方になるときもある。しかし本質的には量の問題でもなく、少しでも効く場合と多くてやっと効く場合、維持している場合と、合っていないのにいたずらに多い場合とあり、最後の場合はやはり処方を変更しているように読めることである。

 生きものを相手にしているので、タイミングと、相性と組み合わせと、患者にとっての損得を考えている。こう考えた場合、ある意味切ったり張ったり試し試しやっている中で経験則ができてくるのだろう。人体実験してはいけないが生体だからこそ、その都度の柔軟性と軸を見失わない対応が必要なんだろう。

 僕は長らく精神科通いを続けているのだが、通うに従い、自分に対する精神科の位置が徐々に周縁的になっていくのを感じる。しかし自分に何が起こったかを再検証するのにいろいろ示唆を与えてくれるブログに出会ったので、自分の身体との向き合い方を再確認できる。いろいろ精神科については戸惑い続け、戸惑いはマシになった面もある。あるいは逆に醒めてみているところもある。難しいがいかなる制度も、己がうまく自分に益するように使うのは難しく、学習や検証も必要である。それはこれから様々生きていくのに必要な知恵に関わることもあるだろう。

ただ、その根本には医師なら医師とつきあってどう感じるかをある程度意識して、その先生のありようを感じておくということが、いい診察になるコツではないかと思う。診察をうまく使えることも、治療のプロセスのように思える。なぜならついついやせ我慢や相手の顔をみてものをいうことがあるから、しかし不信感では何もうまれないので、洗いざらいある程度苦しみの不便の具体面をいってみて、先生の応対や答えや判断がある程度妥当と思えるなら大丈夫。そうでなく、先生が侵入的であったり、退きすぎに見えたら、どちらかに何かが起こっているのだろうと思う。