細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

しかしそのしんどさに口をきかすなら

 あらためて3月末日が合否発表だと思い出す。別に社会福祉士は医師のように「業務独占」ではない。あくまで名称独占資格である。免許がないのに「社会福祉士」と名乗るのはダメ。しかし相談援助というかソーシャルワーク職自体は、「社会福祉士」なしでもできる。

 といっても、ソーシャルワークの「ソ」の字もわからず、また食い扶持以前に社会への道筋がわからなかった僕には「社会福祉士」は名前をもった目標となったのだった。

 とにかく資格がとれるかどうかは3月末日。

 以前は1月25日に試験で3月末日発表はどうかと思った。試験終わってから針のムシロだと。でも、その間にフリーターズ・フリーのイベントに行き労働や社会構造のことを気にしだした折、不況も本格化して、いやこれはちゃんと一応考えとかんと「空気」に流されてしまうと思った。そいで、はてなでも社会科学系や経済系、思想系のブログに訪れて、意味がわからないにしてもどんなトピックが話されているかくらいは認識しようと思った。できていないが。
 2ちゃんねるニュー速などは、確かにチェックはできうるが、しかしいかんせんこっちが座標とかリテラシーがないといかんなと思う。でないとけっこう「空気」な感じの怖さがある。はてなだって、いろんな潮流があるわけだが、新聞やなんかとはちがう口コミ的な意味はある。

 で、2月には大阪で「べてるの家」の講演会があり、そこで改めて俺はなんだっていったん挫折した福祉界隈に戻ってきたのかを考えた。向谷地氏に質問して若干とほほな質問だったとは思うが、今になって国際ソーシャルワーカー連盟の倫理や声明を確認している。「国際ソーシャルワーカー連盟」略称IFSWは通信教育でも試験勉強にも出てくる。しかし日本国内の日本ソーシャルワーカー協会の倫理綱領しか確認していなかった。


 試験から発表という長い間、結局いろいろ考えることができてよかった。しかし何もまとまった考えはできなかった。

 ただ、どこかで「社会適応」や「社会復帰」ってなんだ?という疑問があることははっきりしてきた。以前は闇雲にいやいやしていた世の中の嫌な感じは、けっこう見える形で不況やシステムの機能不全、抑圧的な言説空間、労働の苛酷な実態などなど次々あらわれている。昔はそれが子どものいじめという形で「教育」に置き換えられたり、「オウム事件」という形でアウトサイダーのテロという形で語られていたことがまるっきりこの社会の前面に出てきた感じがするのだ。

 それは以前は暗黙の暴力だったものが、もうこの社会で各部門で押し隠せなくなってきたのだと思う。安倍晋三元総理などはそれを戦後教育、戦後秩序の問題みたいに語っていた。しかしそれよりはるかに微細なレベルでも大きなレベルでも氾濫していた様々なニーズや、あるいは暴力や、新しい秩序への要求が五月雨式に降り注いでいるのである。

 それを「構造改革」だとか「なんとかからの脱却」だとかにすりかえても仕方ない。私はじみ〜に人間と環境を調節したり改変するソーシャルワークに魅力をちょっと感じている。でも、それにはどのあたりから手を付けてよいやら。具体化がわからない。とにかくなんでもやってみる?みたいなラフな感じなのか。

 しかしそんな選べるような経済状況でなく、また僕自身の履歴書空白期間はかれこれ数えるのも恐ろしい。しかし、猫の手も借りたい状況であることはたぶんまちがいない。

 使いつぶされないようにしたい。そのためには、いや、その仕事に殉死するみたいな滅私奉公的なあれもあるかもしれないが、その辺はやってみないとわからんが。しかし実際人間の生命・存在・権利だとかいう人が自分の体を痛めちゃいかんとは思う。でも制度が疲れをもたらす、殺しに来るというのであれば、それはその制度をどう使うか、どう読み替えていくかということになる。

 その際実際、社会科学の知識はなくとも思考方法があったほうがいいしとは思う。システムは変えられない式の絶望を深めるのではなく、いや大変だけどこうした方が最大いろんな人が使いやすい・開かれているというような。工夫、手入れ、お世話、お節介、知らんけどここは直しとくかみたいな。構造改革と呼ばれた流れに意味はなかったわけではないが、それはシステム自体の存続に重点が置かれすぎており、そこで人間が函数ではなく、具体的なネットワークの中心としてはやはり考えられていないと思う。つまり話が僕のような小さい野郎にとってでかすぎなわけです。

 それは最大公約数的に、このシステムを既存のものと捉えて、それが存続するためのスリム化を奨める。もちろん国亡くして、人なしという人もいるだろう。しかし俺やお前がいなければ国も何もないんだぜとはいえちゃうのだ。

 国敗れて山河ありというのもあるな。しかしどうなのかね。山河大事だよ、好き。でも僕自身の卑小なエゴがこうささやくのである。

 それを見る俺が誰かがいなければ、犬もいなければ。この世界では常に誰かが死んでいる。しかしその人が見ていたこと、見なかったことを感じないと面白くないだろう。どうせ世の中には人間や生き物や自然のあれこれつまりは関係のあれこれしか楽しみがない。僕はそう思う。物質界への執着は人間の不自由と自由のアルファでありオメガだ。旅行行くなら、きれいな温泉に行くなら自分の好きな女と行きたいだろうみたいな。昔から国敗れて山河ありとかいって、そう歌った誰かは「山河」にうっとりした奴なんだから。


 それが苦役やソーシャルワークなしでも実現されるならいい。しかしどうもそうなっていない。俺は疲れやすいからしんどいのはいやだ。しかしそのしんどさに口をきかすなら、やはり俺だけでもいいというエゴとともに、でも誰かが苦しんでいるのをみるのつらいよという自然な心、いいかえれば現場や火事場や、戦場では甘いといわれるような呟きが出てくる。

 もし今の社会が変ならば、その嫌だな、マシにしたいなというつぶやきにこそ、妥当さがあるように思う。なんでこんな自信がないかというと、僕は口だけでかくて、やることは小さいというチキンのように自分が思えるからだ。いやそんなばっかでもないのかもしれんけど。なんかすぐ話がそれるなあ、ごめん。