細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

「真の右翼」「真の保守」論法の落とし穴

「真の右翼」や明治の元勲、天皇が、アジアを支配し戦争推進した歴史をご記憶ではないのか。

日本会議に属する人たちの多くは徹頭徹尾『保守』や『右翼』の基本的教養が欠落しています。本来の保守ではあり得ないようなヘイト発言」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/akazawatatsuya/20170218-00067839/

 

「真の右翼」「真の保守」云々と、在特やネット右翼と、伝統右翼やインテリ保守の違いを述べても、「真の右翼」が「開戦やむ無し」と言い出したら抑止力にならないどころか、右翼を免罪して開戦の地ならしをすることにしかならないのでは。
と素朴な疑問が。

ニセ右翼やニセ保守がダメだが「真の右翼」はよいなら、戦前からの右翼で競艇で財をなし、医療福祉支援や慈善事業を行なってきた笹川一族の問題とか、「天皇のためにテロをした」とされる青年将校や、真面目な青年が特攻隊になってしまった人とかは「真の右翼」になってしまう。
百田尚樹と変わらん。
ニセ保守や在特会はダメだけど、真の右翼はいいなら、日本最大の「真の右翼」の明治、大正、昭和天皇は素晴らしいという話になってしまう。

 

森友学園について「カルトみたい」とか「北朝鮮みたい」とか、間違ったたとえを出しておしゃべりする前に、「神の国日本がアジアを支配すれば世界平和を実現。天皇は神で万世一系。臣民はみな天皇の子どもで、天皇のために命を捨てろ」と言ってた戦前を思い出そう。
その主導者の残党が戦後の自民党である。

 

つまり、「真の右翼」なるものは、近代の日本の天皇中心の国家と距離が取れないどころか、天皇神の国日本の信奉者であり、最終的には、自民族中心主義、純血思想などに絡めとられるほかない。

橋川文三三島由紀夫が「真の右翼」の思想的可能性を追及したが、困難であった。

もちろんそこには、まだ発掘できるものがあるかもしれない。しかし三島由紀夫が辿った道を見る限り根源的に行き止まりがあるように思える。

それは右翼が求める「純粋なもの」がどうしても偏狭で、排除的な傾きを持たざるをえないからだ。それはいくら善意であったり、しても結果そうなる。それが明治から昭和にかけて起きた問題だ。

本来、大陸渡来人、北海道以北の人々、東南アジアからの人々から構成される日本という国は、その出発点からハイブリッドなのであり、「純粋な」「真の」というやり方で自己証明をしようとすると、琉球アイヌや在日朝鮮人、中国人の排除につながる。

戦前から戦後にかけて日本から「琉球」が排除されているのは、天皇制の国家体制を維持しようとすれば、必ず排除が生じてしまうということのあらわれだ。

 

もし、神道や日本の古い文化から良いものを取り出すならば、日本をアジアネットワークの一部として捉え直し、私たちがアジアの中で生きてきたことを新たに捉え、日米の軍事支配を相対化するしかないのだと思う。

 

 

 

【詩作品】赤い夜空の鳥

雨が降った後の夜空は

赤く輝いている

なんでだろうって昔からわからなかった

光の加減かなあ

自転車で走ってたら

泣きそうだった

 

いつも緊張していた

緊張していることすら忘れていた

だから裂け目を探している

逃げられるから

どうしたって自分でしかなく

自分からは逃げられない

きっとあの人もそうじゃないかと思う

逃げることができないから

本屋や喫茶店で

強張ったまま

笑って動かない一秒を

力づくで前に押す

 

前がわからない

 

あの人は向き合おうとしている

私は向き合ったその地点で倒れたままだから

いつか出会うかしら

と思う

それとも

そうではないのかしら

 

不安に

胸がうずいて

握りしめた宇宙を

握りつぶしそうになる

いけないいけない

こんな小さなものに

宇宙があるのだから

 

この宇宙は

明日から届いた

かわいらしい鳥のようだ

上手にうたわなくていいよ

その鳥は

たださえずるだけで

胸がいっぱいになるような鳥だったら

いいなあ

 

壁伝いに走ってきた

濡れた路面

様々に

光をさらす空

 

 

 

 

【詩作品】倒れるまで生きている

あまりにも生きているのがつらいから

オナニーとか空を見ることなどで

毎日をやり過ごしていた

何歳になってもそんな感じで

あとは本を読んだり

ハナ歌を唄いながら

やり過ごしていたら

頭の中に死にたい気持ちばかりが

浮かんで来た

 

何も悪いことしとらんのに

死にたいばかりが浮かんできた

死にたいという思いはあれど

死ぬのはイタイとか怖いとか

思った

歩いているだけで恥だと思った

 

しばらくして、人を好きになって

人を好きになり、体をくっつけて

ずっとこうしていられたらと思うが

生活とか仕事があるから

泣きそうになって

本当に泣いていたら

本当に立てなくなり

好きな人を大切にせず

傷つけることしかできなくなっていた

 

人を苦しめても、私の中には

私を優しく包んでほしいという

ワガママだけがしつこく繰り返され

私はもはや本当に屑ではないかと

思われた

 

屑の姿を誤魔化すことは

できないし

したくないので

みっともない姿で

ええかっこする日常人に

私はありのままだと

叫ぶことにした

この仕事はまったく人気がないが

確かに私のバカは晒されており

比較的に嘘は少なく

アスペルガーな私には

楽であった

 

勝負せよ

抱きしめよ

倒れるまで生きている

【日記】障害者生活相談の某所に電話し、初回面談予約をとりました。

本日、精神科の定期診察日。

 

一つのことにとらわれやすいという悩みを話す。主治医にそれは悪い面ばかりでなく、良い面もありますよとなぐさめられる。

(恋愛感情や友だちとの人間関係とかで、辛くなったりどうしたらいいかわからなくなるから、仕事はおろか、安定的に人間関係を作れないんだなあと、後で思った。原発事故以降は活動でよく頑張ってきたが、色々人間関係も難しいし、社会問題もなかなかよくならず、疲れている)

自分はいじめのトラウマで、不安や恐怖にとらわれやすいと話す。

主治医は、その傾向はあるけど、今まで生きてきたのはあなたの力だからそれも感じながら、やりましょうという。

さらに不安や恐怖は悪いものではない、必要なものでもある、それを白黒を付けようとするからしんどくなるので、曖昧に置いておく必要もと。

私は、自閉症スペクトラムだから、不安や恐怖に出会うと、とにかくはっきりしないと落ち着かないのだと返事をする。

主治医は、そうだと思うけれど、あわてて意味をつけたり結論を出さなくてもいいんですよという。

ああ、そうか、確かに。

 

(しかし日常、非常に葛藤や苦しさや寂しさをかかえている。

他方、うまく友だちと飲みに行ったり、仲のいい人を作ったりがなかなかできない。

うまく他人との距離感が取れない)などと考えて、主治医に「あの〜地域の障害者生活相談みたいのを受けてみようかと」というと、主治医ははっきりした声で「うん、やってみたらいいですよ」と。

あと、主治医は日記を書いてみたらと。

 

それから採血を受けた。一番初めにこの病院に来た時に、心電図をとってくださった看護師さん。一年半以上前に一度会ったきりだ。

私「ご無沙汰です。出身は〇〇と言ってませんでしたか」

看護師「そうです。覚えてくれてはったんですね」

私「僕は自閉症スペクトラムだから、妙に細かいことを鮮明に覚えているんです。」

看護師「すごいですね〜」

私「でも辛いことも嫌に鮮明に覚えていて、簡単に忘れられなくて、辛いです」

看護師「そうですか。大変ですね…」

 

採血の針はあまり痛くなく、上手な方だなと思った。

 

そのあと、昼ご飯を食べ元気になったが、帰宅してちょっとしんどくなるようなことがあり、どよーんとしていた。

このままじゃいかんなあ。

やっぱり思い切って、相談してみるかと、某障害者の生活相談のところに電話する。

初めてで緊張しながらも、しばらく働いてない、働くことを考えるだけで、しんどくなる。異様に傷つきやすく、気難しいため、家でモヤモヤしてばかりだという。

そして、「私は普通の人に最初に見えるらしい。しかししばらくすると、私の傷つきやすく、気難しい面が見えて来て、相手は困惑したり遠ざかることが多いような気がします」というと、「よく分析されてますね」と。

私は「分析してもほとんど役に立ちません。。」と。

ともかく面談のアポイントをとりましたから、行ってみます。

 

 

山下克彦さんが、拙詩を墨で書いてくださり、感動しました

インフルエンザになってから1週間を過ぎ、薬も飲みきって3日経ちました。
そろそろ身体を慣らそうと、ギャラリーマーヤさんに。

現代美術家の山下克彦さんの個展に行きました。


墨を使ったダイナミックなアートです。

で、作品を見ると、作品の中に、詩を書いているんです。

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これは日本の戦後現代詩の源流のひとつとなった西脇順三郎の詩「旅人かへらず」なんですね。

山下克彦さん、詩が大好きなんだそうです!

ですから、西脇順三郎の話をしながら、私は詩を書いてますと自己紹介しました。

それから山下さん、山下さんのお友達、マーヤのご主人丸谷さんと、芸術や文化財の話をしました。

で、雨降りになるし、そろそろ帰ろうとしたら、山下さんが石川さんの詩はどんなですか?とおっしゃってくださり。

スマホからお見せしましたら、山下さん、私の「ひと筋のため息」を書いてくださいました。
http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2016/12/26/005950
で、それをプレゼントしてくださいました。

f:id:ishikawa-kz:20170129224052j:image
山下さんには、初めて詩を見せました。

そしたら書いてくださった!感激です。

山下さんありがとうございます!
(写真掲載は山下さんからお許しをいただきました)

【詩作品】encounter

この世界の

終わることない騒がしさ

耳を塞いでいる僕ですが

それは聞こえ過ぎるからです

もっと聞こえ過ぎる人もいる

でしょうが

 

なんでこんなにうるさい

脳みそ自体が

さらにそこからカラダの中を刺激する

僕は苦しい

 

なぜなら君の声が聞こえなく

なるからです

雲が川面に映ります

川面はいつまでも揺れています

不安な始まりをうつします

 

僕の中には

細い糸しかありません

なんとか切れないように

守っていたいのですが

風や雨に

僕は削れていきます

 

僕は激しい風邪を引きます

産まれてもう中年に

なってしまったことを呪います

これからは

親も歳をとります

僕は

どのように

いきていけますか

 

 

僕のワガママや思いが

たくさんの人に

迷惑をかけている気がします

  

僕の思いを

生かそうと

ずうずうしく

生きてきました

本当に

僕の全身で

わずかな思いだけを

抱えてきました

 

生きることに

意味がなくても

生きるんだと

 

苦い苦い朝日に

僕はもう本当に

駄目だと

何度思ったでしょう

 

それでも

水が流れ

雪はきしんでいきます

流れるあたたかさに

沢を渡る

僕がいます

 

深い山を切り分けて

会いに来たのです

実際のもの

現象の奥にあるもの

 

光りがあるのです

葉が開き

光りを受ける時の

さわやかさです

 

僕や君が老いても

出会える美しさが

あるのです

 

『シン・ゴジラ』『この世界の片隅に』がヒットする安易な「復興」ではなく、事実に立った茨の道を切り開け。

昨年大ヒットした『シン・ゴジラ』と『この世界の片隅に』は、前者は放射能汚染からの楽観的復興、後者は戦争と原爆を加害者意識ではなく、災害として過ごし戦後を迎え復興を始める映画として、私は見ていて、徹底的に批判しているが、賛同者は少ない。

前者の官僚エリートからの災害管理の眼差しは目新しいが、日本社会が官僚エリートにしか支え切れぬものと居直って描かれた感しかない。

後者は、主人公が見合い結婚する女性で、さらに暮らしより絵にこだわりを持つ独自のペースの人、つまりマイノリティであるにも関わらず、主人公のつまずきは、すべて主人公の鈍臭さに帰責されほのぼの笑われるという多数派視点が鼻につかざるをえなかった。


復興を楽観的に描くのが嫌だとか、マイノリティや女性に対するしっかりした描写を求める点、私の見方は、厳しすぎると言われるかもしれない。

しかし戦後復興をその負の側面、見失ったものまで、見透さないかぎり、今後日本社会が原発をやめたり、戦争をせず、平和な社会であることは不可能である。
また、私は、この6年間徹底的に官僚主導の安全論による復興を批判してきた。
シン・ゴジラ』には、官僚に対する冷めた目はあるが、批判はない。
根底的な批判によって、放射能汚染に向かいあい、一人ひとりの権利の回復を求めたい私に取り『シン・ゴジラ』は、許して通せる映画ではなかった。

また、『この世界の片隅に』のすずの造形は、発達障害と診断され、マイペースに生きざるを得ない私からして、その微温性は不快ですらあった。

未曾有の破局と差別という今後私たちが向かい合わなければならない課題に、不十分な解答しか出せない映画が、大ヒットするのは、これが私たちの現状だとおもう。
私たちは今の現状に、鋭いメスを入れ、深層をえぐり出すより、良くも悪くも、破局の核心を見ることを避けている。
黒澤明今村昌平がエンターテイメントの中で放射能や原爆を辛辣に描いた到達点、はだしのゲンゴジラ映画の到達点を考えるなら、この大ヒット2作は映像的には丁寧で工夫があるとはいえ、哲学において、不足を感じるわけで、安易な激賞は、これまでの日本映画の到達を忘れた若干やりすぎなものを感じないわけにはいかない。

 

それに比べ、瀬戸内寂聴原作の『花芯』は、非常に優れているわけではないが、女性がパートナーを選べない見合い結婚の時代に、女性にとって、意に沿わない相手との性行為の苦痛、虚無を描いてあまりある。

また、夫ではない、男性と恋に落ち、その性行為にも満たされぬものをかんじ、たぶん、自分とは何かの問いに立った女性の姿。

この題材を監督が選んだには、今の時代ですら、私たちは自由な人間的関係にたどり着いていないという直感があるわけで、そこに悪意や皮肉に見えるまでの監督の批判性の刃を感じた。

何より『シン・ゴジラ』や『この世界の片隅に』のように、見た後、疲れや満たされなさではない、不思議な爽やかさがあった。

 

映画は優れて、快楽を深めなければならないのだ。