細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

【詩作品】ありがとうとごめんなさい

わからないでいる

信じるしかないのである

信じる力が弱い私である

信じようとしても絶えず別の刺激に

さらされ

乱反射する光と音が

頭の中でキラキラ踊っている

 

あなたと私は違う

なぜ違うのかわからない

無理に同じになろうとする

痛くて悲しくて引き裂かれる

慌てずにゆっくりつながろうとして

季節外れになる

Tシャツを持って

寒い夕暮れに部屋で

立ち尽くしている

 

同じでないものを同じでないままに

信じるしかないのは

私は誰とも同じになれないからだ

同じになれないということに

可能性と確かさがあり

ぬくもろうと

日向に近づくのは

影の寒さが確かだからだ

 

モタモタして暴れて

変になって

誰しもを苦しめ

苦しめ

苦しめ

恥ずかしい思いを

誰かが許してくれると

願っていた

 

しかし世界は深く揺れて

波が立っている

慌ただしく

行かなくてはならないが

それは

生きること

いきていること

が消えてしまわないように

なおも

思い出の中に飛び込むため

 

朝日

味噌汁

音符

炸裂して

ありがとう

ごめんなさいと

ありがとう

ごめんなさいと

 

 

 

 

 

放射能汚染の影響について言えること、言えないこと、あるいは私のできること、できないこと

放射能汚染による被ばく影響は色々ありそうだと思っています。
ただ、私には調査技術がなく、そのツテもない単なる障害のある市民なので、考えられるかなとは言えても、確定的な断言ができない。
その技術がある人が調べてほしいし、医療問題研究会や津田敏秀教授はやってますが、ごく少数で厳しい。

というふうにここんとこずーっと書いていて、つまり原発事故の影響の安全危険を判定する前の現状把握がこの日本には足りてないんですが、そういう指摘をする人が少ないのが嘆かわしいです。

私は最近、疫学的科学的検証の必要性を主張していて、それは現状を判断するデータや分析の蓄積がなければ、安全危険以前に話が浮いてしまうからですが、科学的検証というと安全論者みたいにみる人がいるみたい。
違います。データがないのに憶測ばっかりでモノを言ったって誰も助からないから。。

放射能談義をして、ツイッターで、殴り合いをしても、何にも動いてないし世の中も変わってないのがわかる。だから私は運動や学習会に参加して、比較的まともな論説を取り上げて紹介する。
専門家でも金持ちでも政治家でもない私にはそれくらいが限界です。

原爆被ばくの実像も、当時の資料の掘り起こし、体験の聞き取り、語り継ぎ、運動と訴訟という事実ベースで進んでいて、着実に国の安全論をひっくり返している。
ある時からこれをモデルにした方がと思いました。
歴史に学ぶということです。

逆に問いたいんですけど、皆さん自分の活動が例えば原発事故の被害者の境遇や実態解明に本当に繋がっているのか、自信がなくなる時はありませんか?私はあります。わずかな極めて間接的なことしかできない。
自分の非力や不徹底もあるかもしれない。しかしそう考えてリアリティがやっと確保される。

自分が大海に砂を投げてるようなことしかできてないなあと思います。
でも、私は歴史や世界に比べ本当に大海の砂だから。
しかし大海の砂の私は1人の人間でもあります。
この時代に生きる私を大事にしながら本気で考えるだけ考える。逆に無理はしない。これしかありません。

私のtwitterアカウントに(いきている)と名づけている理由

私はいじめを受けたり少年時代にバカにされた傷が消えず、自閉症スペクトラムでもあり、不安や恐怖や強い心細さに襲われてきて精神が変調したことが幾度もあり、不適応になり、不安や恐怖を回避するようになった。
しかし回避することが自分に不安の正体を見えなくさせているのでは?と最近。

 

私の不安や恐怖が人より強いか弱いかわからないが、私が不安や恐怖にすぐへこたれてしまうのは事実。だから辛くならないように自分を守ってたりする。
しかし不安や恐怖は人生につきものでもある。
とすれば、私は逆にそれと対面してそれから学べば成長できるかもしれない。辛いとしても。

 

最近ヨガをやっていて、呼吸をちゃんとすれば、気分が乱れても、疲れても立て直せると思った経験が大きい。また、友達の音楽や絵画に触れ、心が温められた経験も大きい。

 

もちろん私は自閉症スペクトラムとかトラウマとかハンデもあるわけだから単純な楽観はできないが、ここ一年かけて色々悩みながら自分の個性自閉症スペクトラムについて、考え受け止めようとしてきたことがある。

 

私は生きるのが怖い。本当は生まれて生きているのが恐かった。けれど私は「いきている」twitterアカウントにそう書いているのはなおも生きている私に、命を愛する意味を問いかけたいためだ。

 

私が被曝や政治で問いかけたかったのも、たぶん私の個人的な問いかけである、命を愛することができるかに繋がっている。
私たちは命を愛する、いきている、を愛する危機にあるからだ。

 

 

鶴保沖縄担当相、機動隊員「土人シナ人」発言について、「言論の自由はある」の仰天国会答弁の大問題

 

「土人シナ人」発言の機動隊員は沖縄県民の人権を著しく損ねていると思います。沖縄県民を「自由に傷つける権利」があるわけではありません。こともあろうに沖縄担当大臣が沖縄県民を守らないとは。

 

この方や強行採決発言の農水大臣もそうですが、民主的社会の原則も、政府の都合で歪めますといっているも同然です。
彼らを更迭しない総理もまた同じ考えだと見なされて致し方ありません。
きわめて危険な状況だと思います。
選挙で負かさなければさらに暴走するでしょう。

鶴保沖縄相、差別認めず 「言論の自由はどなたにもある」 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース http://ryukyushimpo.jp/news/entry-390604.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter

 「人権問題であるかどうかの問題を第三者が一方的に決めつけるのは非常に危険なことだ。言論の自由はどなたにもある」

「今現在、差別用語とされるようなものであったとしても、過去には流布していたものがたくさんある」

森有正の言葉が最近改めて響く「孤独とは経験そのものであって、孤独であるということが、つまり人間であることだ」

 

最近twitterをやっていて、森有正の言葉が改めて響いてきました。

世の中や人間を賢しらにあるいは善意からあるいは悪意から語る声に疲れます。

森有正が言っているのはもっと違うことです。

 

森有正
もりありまさ

[生]1911.11.30. 東京
[没]1976.10.18. パリ
哲学者,フランス文学者。初代文部大臣森有礼の孫にあたり,牧師であった父親の影響で幼い頃からのクリスチャン。 1938年東京大学仏文科卒業,デカルトパスカルを専攻。第一高等学校教授を経て東京大学助教授在籍中の 50年に渡仏,そのままパリに定住して 55年からパリ大学で教鞭をとり,日本語と日本思想を講じた。

https://kotobank.jp/word/%E6%A3%AE%E6%9C%89%E6%AD%A3-142843

 

以下twitter森有正botより引用。
https://twitter.com/arimasabot/

 

現在、ことばというものが、非常にむなしいものになっているとしたら、それは、経験の裏づけを失った、沈黙の重みをになったものでなくなってしまった、ということでしょう。
✳︎
ことばをほんとうに自分のことばとして使うということが、実はその人がほんとうに生きるということと一つになる。
✳︎
日本では、自由とか、平和とか、民主主義とか、そういうことばそのものにつかまってしまって、それらのことばのもつ真の意味を考えない。どうも、事態がすべて逆転している。これは非常に不幸だと思います。
✳︎
孤独、絶望、死、これらは決して悲壮がかったおどし文句ではないのだ。人間の魂のカリテ(質)なのだ。どうしても、そこに行かなければ、先に向ってひらけないものがあるのだ。
✳︎
人間とは、まず悲しみなのだ。
✳︎
人は一人一人自分で人間にならなければならない。
✳︎
いろいろの人がいろいろちがったことばでいっていますが、人間の実存というのは同じ構造ですから、結局みんな同じことをいっているのです。だれも皆、同じことを違うことばでいっている。しかし私は、実体は全部同じだと思っております。
✳︎
感覚を出発点としない、そういう抽象操作というのはありえない。というのは、直接的な感覚の世界だけが、この世界でわれわれが触れることのできるものだからです。
✳︎
絶対に他人がとってかわることのできないものが、自分の経験なのですから、その自分の経験が自分なのだと気がついたときに、人間は本質的に孤独なものだということに気がついてきます。
✳︎
今僕の心を捉えているのは、やはり、自分の感覚の解放ということである。それは出発点となる感覚の状態の純化といっても同じことである。感覚から出発するなどと簡単に言っているが、これがどれだけ大変なことか、またこれなしには、経験も思想もすべて虚しいと思う。

✳︎
孤独とは経験そのものであって、孤独であるということが、つまり人間であることだ、と思うのです。

憲法改正の動きについて、憲法審査会の動きについて、少し情報がありましたので、お伝えします

憲法改正是か非か】来月11月より衆参両議院の憲法審査会が再開されます。解散総選挙も噂され、憲法改正に向かうターニングポイントに来ました。 - 細々と彫りつける http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2016/10/29/191055

 

このブログを書いて、しかし実際に国会議員に質問しなければと思い、ある野党系国会議員の集会に参加し質問しました。その議員は憲法改正の動きには詳しい方だと思います。

 

私「憲法審査会が開かれますが」
議員「自民党は今選挙に焦点を合わせているようだ。改憲では選挙に勝てないので、表向きトーンダウンしてる」
私「自民党は選挙に勝って改憲するつもりか」
議員「選挙前は静かにして選挙後に改憲を言い出す恐れはある」

 

議員「審査会では憲法制定過程について議論する」
他の参加者「憲法審査会の位置付けは」
議員「基本的には憲法の調査と議論。改憲の際には憲法案について話し合い両議院にかけて発議する。しかし国民が積極的に改憲を望んでいるわけではなく、自民党のやり方は疑問だ」

 

議員「ただ、合区というのがある。憲法上の一票の格差のために合区したが、過疎自治体は代表がいなくなる。憲法を変えて、国会議員都道府県代表とするためには憲法の改正が必要という意見があり、議論になっている」

 

議員「今回の審査会で憲法改正について意見はなかなかまとまらないのではないか」
私「憲法改正について各党意見がバラバラだからですか」
議員「バラバラだと思う」
(3分の2議席を与党がとってるので、油断は禁物だと思います。しかし、実際国会は選挙モードかもしれないと感じました。しかし自民党は今までも意外な手を使いましたから憲法審査会も注意したい。さらにもし選挙がある場合、選挙のあとは要注意です)

扇風機を片付けた日に考えたこと

今日、母親が扇風機とか色々なものを片付けていて、混乱したりイライラして、泣いていた。それを帰ってきた父が泣くことないやんかと慰めていた。

二階から私が下りて、父母の様子を確かめ、私は二階に上がり、自分の部屋の扇風機を片付けることにした。片付け方がよくわからなかったが説明書を見ながら1人で片付けられて、よかったなあとしみじみしていた。

母親は、神経質な上に色々トラウマがあるらしく、よく疲れたり、悩んだりしている。
私は本当に体質的にそっくりです。
一段落したあと父にも「私も掃除や片付けでパニックになりがちなんで、同じやな」というと、うなづいていました。
でも母は頑張り屋で、利口な人だから、体操をしたり、山歩きをしたりして、健康を維持しています。
私が小さい頃は母も子どもに心配かけまい、弱音を吐いてはいけないと、大丈夫なふりをしていたようですが、私はそんな母を心配していました。
しかし、私も同じような体質なんで、母を助けることは出来ないのでした。

父は私と同じく頑固で自分のペースで生きている人です。
だから、私や母は父が鈍感なので、困りましたが、父は明るく親切な人でもあり、父の能天気と、母の繊細さがギリギリの均衡を保ち家は維持されてきたのかもしれません。
しかし、私はそんな父と母に、私の本当の問題を話せないまま大人になり、父と母も、私の弱さを心配しながらも、どう手助けしてよいかわからなかったのかもしれません。
40代になって私の発達障害がわかり、私は私自身、何が苦しかったか何が苦しいかの正体のしっぽは見えるようになったのかもしれない。

親に頼りたい甘えたいという気持ちもたっぷり持っている私で、未だに親に甘えている部分もあるけれど、親も歳をとり、私も中年になり、あらためて、私はどう生きていこうと、悩ましい日々ではあります。