細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

Nine inch nails“The good soldiers”を和訳してみる

 

The good soldiers 

Written By Trent Reznor

https://genius.com/Nine-inch-nails-the-good-soldier-lyrics

 

「模範的な兵士たち」

 

[Verse 1]
Gun fire in the street
Where we used to meet
Echoes out a beat and the bass goes
Bomb right over my head
Step over the dead
Remember what you said, you know, the part about
Life is just a waking dream
Well I know what you mean
But that ain't how it seems right here right now
How can this be real
I can barely feel
Anymore

通りで銃声
僕らが会っていた場所だ
ビートが響き渡り、ベースは爆弾となり
僕の頭を突き抜けて行く
死者を突き抜けて行く
君がいった言葉思い出す
人生の一部は、ただ目覚めたまま見る夢なんだって
ああ、君の言う意味はわかるよ
だけど、それはどうも正しいようには見えないんだ
今、ここではね
これがどうして現実なんだろうか
僕はもう感じることができないよ
何もかも

 

[Chorus]
I am trying to see
I am trying to believe
This is not where I should be
I am trying to believe

僕は見ようと努力している
僕は信じようと努力している
これは僕のいるべき場所ではないが
僕は信じようと頑張っている

[Verse 2]
Blood hardens in the sand
Cold metal in my hand
Help you understand
The way that things are gonna be
There's nowhere left to hide
'Cause god is on our side
I keep telling myself

砂に埋まった血のかたまり
僕の手に握られた冷たい金属
君の理解を助けるだろう
物事がどのように起き続けているか
隠れる場所は残されていない
神は我々の味方だ
そう、僕は自分に言い聞かせている

 

[Chorus]
I am trying to see
I am trying to believe
This is not where I should be
I am trying to believe

僕は見ようと努力している
僕は信じようと努力している
これは僕のいるべき場所ではないが
僕は信じようとしているんだ

No one's even sure
What we're fighting for
Or who we even are
Anymore
I feel
So far away

誰もはっきりわからない
何のために戦っているか
あるいは、僕らが何者か
誰か
私は感じる
ずっと遠くにいるのを

 

 

<訳した感想>

偶然かもしれないが、コロナパンデミック原発事故の時の人間の不安の心理に似たものに感じる。

この曲の入ったアルバム「year   Zero」は、人生で一番激しい躁鬱の激しい交替期が過ぎて、回復途上の2~3年後によく聴いていた。

新型コロナウィルスへの検査と再分配対策を怠り、無視することは、世界中の支援が必要な人々を、「優生思想的な」暴力に晒し、資本主義と国家の「社会的淘汰」の圧力をさらに増悪させることを人々は自覚しているか?

 

 

多くのひとの誤りとして、単に過小評価のみならず、表立って、ウィルスの危険について、積極的な表明をされていなくても、この危機に対処することはできないのだから、これは新しい危機なのだから、救済は難しいと思うひとは多いのではないだろうか。

国家や経済がウィルスに対して無力だというのは、私もわからないではない。
しかし、国家や経済が自力救済や競争によって成り立っているから、無力だと私は言いたい。

たとえば、私には心身の不調があるから、結果的にコロナの前から引きこもっている。
しかし、それは結果的に今は感染機会を減らす方に働いている。
まずこれは悪いことか?と。

また、心身が弱いとストレスや感染に脆いというのがある。脆いから気を付けるという話になる。
面倒な反面今の事態にはさらに必要なのだ。

つまり、今回のコロナ危機はたぶん、からだの丈夫なひと、労働を基本においているひとに取り、たぶん、わかりにくいものだろう。

からだの丈夫なひとや労働を基本においているひとにとり、満員電車や風邪引いても薬を飲んで出勤するのが基本だろうが、満員電車や風邪薬を飲んで働くことは危険だ。
それはコロナの前からわかっていたが、ウィルスの存在でますますはっきりわかった。

お金がないから稼ぐしかない、養う、生きるためには働かねばならないというひとがいて、もちろん経済補償しないと休めないひとは多い。

そうであるなら、病気で私は働いて生きていくことができないから、年金をもらって親と暮らしているのだ。
私はコロナの前からそして今も大変不便だ。

ここでひとつわかるのは既存の経済、既存の労働はひとに過酷な競争と、戦力としての体力を強いるので、その担い手も不便や苦しみを我慢し、気晴らしでしのぐという形で搾取を受け入れさせられている。
最初は違和感に耐えて働いていたはずが、これは仕方ない、この中でいきるしかないという話になり、搾取者と被搾取者で、強力なマッチョ、自己責任、つまりは優生思想のサークルを閉じてしまう。

これはそのやり方ではダメだと、オルタナティブとして農業や自分で商いや取り組みを始めるひとにも襲いかかる。

なぜならスタンダードな資本主義適応から外れると、さらに過酷な波が襲い、オルタナティブを襲う。
オルタナティブも、市民運動も踏ん張らねばと、頑張ってしまう。

残念ながら必然的に体力のない人やマイノリティはどんどん置き去りにされる。

第3世界には、手洗いやうがいをする安全な水がない地域がたくさんあり、過酷な気象環境や政情不安もある。
この人々に対策が必要なのだが、対策を全世界的に考案していないと、つまりは、第三世界のひとに比べて私たちは贅沢なんだから、検査を控えようというのは誰のためにもならない。

また、「先進国」という社会も労働を維持する装置としてただ、医薬や福祉があるだけで、私たちのように、非定型的な疾患、障害をかかえれば、それにあったケアやサポートはない。
なぜなら、労働は優生思想を軸に組み立てられているからだ。
障害者を優生思想的に、労働に適した身体に近づけると、障害のケアではなく、障害の否定が起きる。

優生思想により組み立てられた労働のあり方も、ウィルスにより無力を露呈する。
ウィルスはどんなひとにも感染しうるからだ。
そして感染の結果起きる被害には歴然と違いがあらわれるが、それを人々は、からだが弱いから仕方ないとし、健常者社会が維持されかねない。
過酷な過密な都市環境もそうだ。
本当はこれは危険なのだが、特に日本政府は対策しない。

つまり優生思想や経済的淘汰の考え方は人間の地球環境的な本性に当てはめてはならない、無理のある考え方だ。

ならば、労働や都市のあり方を変えるまで、本当は政府が財を再分配しないといけない。
政府が稼いだ金ではないから。
検査や治療を施さねばならない。
からだの弱いひとが犠牲にならないために。
この整理ができないと非常な惨事が起きてしまう。
国家のヘゲモニーの維持や、文明の無力を塗り固めるために、対策をしないことで、ウィルス事態に対するるはずの人間文明が「弱者は死んでも仕方ない」という優生思想や「本人の努力が足りないから死んだので社会や私たちには責任はない」という経済的淘汰の恐るべき猛威にひとをさらしてはならない。

しかし、ここで、日本政府のやってることは、検査を少なくし、見通しをなくさせ、自己責任にかぶせ、予算をなかなか出さない。

ここでも真っ先に死ぬのはからだが弱いひとなのだ。

(そして厄介なことに、高齢者や持病のある人が最大の被害を受けるが、若者や子どもも重症化しないわけではないのがこのウィルスの特徴だ)

つまり、対策をすることは、現在の社会的な弱肉強食、優生思想がしわよせてくる命への被害を最小化することでなければならない。

多くの政府が今までの社会はだめになりそうだから積極的投資を図るのだが、日本政府も日本政府のオルタナティブを探っていたはずのひとびとも、今までの社会の中の何かにこだわっていて、今コロナで危険にさらされるひとには対処ができないまま、自分たちも過酷なサバイバルに対処をしたり、目をそらそうとしている。

こうして常に国家や経済の破れ目が見えてくるのに、その視野のそとに遺棄されるひとと、全面的な助け合いに乗り出さないひとびとの、冷たい真面目さを私はみている。

大阪兵庫の深刻な感染状況に対して必要な対策について

皆さん、大阪兵庫の感染爆発はわらいごとじゃないんですよ
- 細々と彫りつける

http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2020/03/21/014157

 

続編です。

 

〈感染拡大を防ぐために〉

 

私は大阪府民です。

大阪兵庫の感染状況は国の専門家(北海道大学の西浦教授)の推定によれば、大変深刻です。



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大阪府/第9回大阪府新型コロナウイルス対策本部会議 http://www.pref.osaka.lg.jp/iryo/2019ncov/dai9kai2019ncov.html

私はデータの子細な数字の正誤はわかりませんが、明らかに文章は危機的な状況を伝えています。

在阪私鉄や関西経済界、大阪兵庫以外の府県と連携して、満員電車などの混雑緩和が必要だと思います。
ウィルス検査や治療体制の増強、公共交通や施設などの消毒、人々が安心して自宅にいられるよう所得補償と減税を行う必要があると思います。

また、国にたいしては他の都道府県においてもこのような被害推定を行っているか、早急にデータを国に出させて、全国的に対策を改める必要があると思います。

なぜなら、東京都と神奈川、埼玉、千葉などの首都圏では大規模な鉄道がつながっていますし、日本に来る世界の人々に対する感染被害も考えられます。

政府専門家も、感染が抑制されていると政府を正当化する提言に止まっていますが、本当はクラスター対策班の西浦教授のようなデータを知っているはずです。

全国的に、軽症者に対しても検査と治療設備(特に人工呼吸器や救命治療設備)を増強する予算を組ませ、失業者、休業者、患者に手当てを支給する必要があります。

 

〈オリンピックを機にコロナと原発事故を見えなくしたい政府〉

 

 

またオリンピックは中止すべきと考えます。

その続きとして政府が検討している汚染水の海洋放出も中止すべきでしょう。

 

これ以上日本政府が世界に感染拡大や太平洋への放射能汚染水などの被害を与え続けるのは、地球環境倫理に反していると私は思います。

また先日小泉環境大臣は、大臣室の鉢植えに放射能汚染土を使用しました。

4月から、放射能汚染土を全国の建設公共工事、堤防の部材、道路の路盤材、農地などに再利用を制度化しようとしています。

これらの恐るべき計画はオリンピックを目途に考えられていて、ここにコロナウィルスの世界的拡大がかぶってきました。

しかしコロナがあっても、なかなか日本政府はオリンピックをやめようとしません。

感染拡大が止められないと、南ヨーロッパからアフリカ、南米など、貧しい国々が大惨事になります。

医療設備が整った国々ですら、対処に苦慮しているのはみなさんご存じでしょうから。

 

つまり、オリンピックつまり世界経済のなかで、福島原発事故は「アンダーコントロール」とアピールしたいのです。

福島原発事故をなんでもなかったことにして、東電が再稼働をしたいのでしょう。

 

日本政府が原発事故でも、コロナでも政財界に都合のよい「アンダーコントロール」してオリンピックしたいのは明らかです。

世界中の人間や様々な生き物の命を守るため、コロナウィルスと、放射能汚染について、おかしいものはおかしいと言う必要があるのではないでしょうか。

 

 

皆さん、大阪兵庫の感染爆発はわらいごとじゃないんですよ

大阪のことはわらいごとじゃないんですよ。

私は大阪府民です。
みなさん、確かに維新はおろかです。

ただ、西浦教授が示した事実の重みは別です。
大阪、兵庫全域でクラスタの連鎖形成が起きてるわけです。
放置したら崩壊します。

検査と休業補償をやって、鉄道の混雑解消をしないと、兵庫で起きてるような院内感染が続けば、感染爆発になると西浦教授の指摘はわかりやすくいえばそういうこと。

都市交通の過密状況では、感染の連鎖が止まらないんです。

もちろん、ライフラインやいくつかの部門は止められませんが、みなさん、維新をネタ消費するだけではダメです。
維新がダメなら私たちが
コロナ危機をみないと。

それからこういう被害想定を政府は全国でやってるなら、それを出してもらわねば。

世界にも公表して、韓国や中国に知見を借りねばなりません。

 

このまま、日本がオリンピックに邁進してしまえば、世界も多大な被害を蒙り、原発汚染水が太平洋にばらまかれれば、人類と生態系を変貌させます。

 

命を助けていくしか、人間社会を維持できなくなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

150年以上の「アンダーコントロール」としての日本を9年目の311に考えた

 

311について、感慨のようなものを述べようとしたが、違和感。
311から引き続いて、災害や現在の感染拡大が起きた。
いずれも、被害に遭った人々の命と権利を必死に守ろうとせず、政府や産業は、惨事便乗的な統制をかけ、対策にかかるコストを削っている。

私たちはあれからずっと、いやもっとまえから「アンダーコントロール」されていたのだ。
大日本帝国の戦時が継続されながら見かけだけの平和。
見かけだけの平和すら作ることを今や放棄している。

そのようなことが明らかになっている。その最中に、表面的な「忘れない」や「復興」という言葉が踊ってる風景に私は違和感を抱く。

戦後復興もこのような本質があり、死者や被差別者はバラックとともにコンクリートのしたに隠され、戦争の傷のある沖縄やアジア全体が視野から消されたのだ。

私たちは戦後何度も何度もこのような隠ぺいを繰り返した時代を「解放された時代」と誤解していた。
日本が覆い隠したものを、アメリカは、戦争として朝鮮半島ベトナムで引き起こした。
日本は、それが公害や会社人間としてあらわれた。
自ら獲得した解放ではなく、米ソの軍事的緊張の中で日本は日米の支配者から平和に似たものを与えられていた。
そこにはセットで、原発や日米軍事同盟がついてきた。

しかし、ともかく平和に似たものであれ、平和はだいじだろう、君も戦後生まれだろうとひとはいう。

確かにそうだが私はいじめや社会の息苦しさになんどころされそうになっただろう。

福島原発事故や、新型コロナウィルスで、私は小さな頃に似た絶望と苦しさを感じた。

出口のないまま、いつどうなるかまるでわからない、私のペースが奪われた感じ。

資本主義と国家主義の脆さや持続不可能性が、今やウィルスで明瞭に明らかになったが、そのあなをふさいでしまいたい政府や経済界の醜さ。
しかし、社会が崩壊すると、弱い人から殺されるのだから、それをなんとかしなきゃいけないアンビバレンツ。

大丈夫とか日本すごいとか、くだらない明るさに、目眩させられ、わたしはなんとかいきているだけなのだ。

安倍政権の特措法改正や緊急事態宣言に私も反対です。 ただし反対するために、新型ウィルスの危険を過小に見積もることは危険です

市民運動や社会運動の現場で、新型ウィルスの評価がバラバラなのが、心配で、この記事を書きました。

 

季節性インフルエンザより重篤な症状を引き起こす疾患であることはWHOの事務総長が認めています。

安倍政権の特措法改正に反対すること、緊急事態宣言に反対することに私はずっと同意しています。

しかし、インフルエンザより低い危険しかないとしてしまうのは現時点で間違いです。

それはあたかも、原発反対なのに、原発事故の放射能を自然放射線と変わらないとしてしまうことに似ているのではないでしょうか。

 

対策をすれば感染率も死亡率も下がる可能性はあります。

また、安倍政権は検査が不十分で、感染実態はまだわかりません。

だから、予防的に注意して対応するといいたいわけでして、細々したリスク論に回収していきたくもないわけです。私は専門家ではありませんし、あくまで今の時点の国際機関や国内の感染報道をみているのです。

 



私たちが命を予防的に守るには真っ先にリスクがたかいひとをのことを考えねばなりません。
リスクがたかいひとを守るためには、今のところ症状がない人にも感染予防対策が必要です。

しかしそれと同時に政府が恣意的に人権を制限するのは問題です。
ウィルスに感染した人や感染防止対策について人権侵害を問うことは可能でしょう。
なぜなら、人権の要諦は命を大切にし、人に不当な扱いをしないことだからです。

ウィルスから防御することと、政府の人権侵害を問うことの一致点を見つけることを諦めてはならないのではないでしょうか。

安倍政権に反対するために、新型ウィルスの危険性の評価まで、低く見積もるのは大変危険な行為だと思います。

さほど危険なウィルスでないなら、世界中がなぜ対策をしているのか理解できなくなるし、インフルエンザや風邪とおなじなら、今までの安倍政権とおなじでなにもする必要はないことになります。

 

また、安倍政権が人の命と権利を守りたくて国家権力を強くしたいわけではなく、おそらく、不満や反発する人々の行動を制限したいわけでしょう。

不満や反発する人の中には、深刻な症状を抱えてる方々を心配して、行動する方もいるはずで。

ですから、危険は少ないから緊急事態宣言はいらない、ではなく、危険があることから命や人は守るべきだが、緊急事態宣言以前に、中国武漢の大惨事が起きているときから、検査や医療体制を作ることはできたはずで、これは緊急事態宣言なしにすぐできたはずだし、今も入ってくる保健所の検査拒否の問題を解くべき。

 

 

日々、検査拒否により、患者の容態の悪化のニュースがはいってきています。これは単なる騒ぎすぎかどうかも、検査拒否などしていたら、わからなくなってしまいます。

私はそれをないがしろにはできません。

たとえば、新型ウィルスの危険性を認めながらも、各自でその認識をもちながら活動し、また、安倍政権の法改悪に逆らうことは可能です。

 

国籍や社会階層やジェンダーでひとを差別するのは、単にまちがっています。

ウィルスはひとを選びません。誰がなに人だからとか関係ないのは世界的な拡大で明らかです。

また、貧しい人ほど仕事をしなくてはならないから、感染してしまうのは、これは、労働問題です。

 

また人間は生き物ですから、ウィルスから身を守ることも必要です。

 

差別をしないで命を大切にしないと、社会はめちゃくちゃになります。

 

それぞれがそれぞれの意思、選択でどのような活動をするかは、最終的に各自の判断が大切であり、感染から防御しながら様々な活動の展開は可能です。
私も時々町に行きますが、その時は帽子、マスク、手洗い、やってます。
今のところインフルエンザと変わらない対策しかやりようがありませんが、感染した際の重篤化、死亡率は今のところインフルエンザより高いと言うことは(これは対策すれば変わります)私のみた範囲でも国際機関の認めるところです。
国際機関がなんでも正しいわけではないが、オリンピックがあることに配慮したなら国際機関は危険を軽んずる政治的リスク判断がありえますが、そうしていません。
中国の全人代も延期されました。SARSの時ですら延期しなかったのに。

なぜなら、感染症予防法に規定されるように、感染者や人々の人権を差別や国家による人権侵害から守ることと、感染症対策をすることは、両立させねばならないからです。

ぜひ整理していただきたく存じます。

ディオニソス的な感覚で命や物質の運動を考えてみるとき、「正しい科学」の抑圧性、排除性が痛切である。

例えばニーチェやアントナン・アルトーフーコーは、人間の近代的な捉え方を解体した。

なれば、彼らは責任や権力や約束を否定したか科学を否定したかと言うと、そうではない。
むしろ、別様な科学、責任を創設したのだ。

例えば、アントナン・アルトーは、社会がゴッホを殺害したと言うのであるが、ゴッホと言う感受性のマイノリティを理解しない社会の責任を告発したともいえるだろう。

多数の人がみていない事実をみる人の孤立を私たちは常に見損ない、様々な関係性や微細なもののあり方に気づかない。
そこにも、私たちの世界があり、そこに応答する責任も実はある。

しかし、一枚岩にしか世界をみていない場合、責任や約束に対してそれを認めるか、相対化して問題を消去するしかないだろう。

そうすると、近代と脱近代の永遠のループから出られなくなってしまう。

ちがうのだ。
ニーチェゴッホアルトーが果たそうとしていた責任は、宇宙的な発想において、みるものをみ、聞くものを聞くことはでき、それを将来かならず、この現世の人びとに感じさせることはできると。

たとえば、ニーチェカフカは今日的な眼差しでみるなら、自閉症スペクトラム的である。
異常なまでの認識の亢進、過敏な神経の反応、かいまみえる克明で多彩な現象の変化。

これ自体が世界にあまねくちりばめられた様々な不可思議やズレを感受する装置である。

私はとうてい、ニーチェカフカに手が届かないが、自閉症的な感性はあるから、彼らよりは小さな形で、感じている。

それは人間は世界をつまりは傷つけると言うことを我が身の微細な認識で、からだごと理解してしまうと言うことだ。

私はそのような受苦の感覚が、放射能や新型ウィルスの裏にある人間のごまかしの政治、応答責任のなさを感じさせる。

そのような責任はむろんニーチェが論難した責任より、彼がディオニソスといったよりハイパーで、微細な感覚が乱舞する世界での責任である。

つまり、命の動き、物質の動きを過小評価せずあらゆる反応を肯定することをごまかす、統制的なリスクコミュニケーション的な過てる科学への反逆であり、本当は物質や命にビビッドに反応すると言う意味ではディオニソス的な受苦的な体や心の震えに身を委ねその震えがまるごと、この人間世界の罪障のありかをしめしている。

ディオニソスはそのような高次の責任や科学の眼差しの意味だろうと私は感じる。

もっといえば、健常者が作るフィルターを外して世界をみると言うことで、私はこれで、ウィルスや放射能の破壊性について考えてみていると思う。

 

私の場合フィルターを外すというより、ちがうフィルターをたまたま持っていたという話。才能とかではない。

他の人とずれていただけである。

それで生きづらいわけだが。

 

 

 

ちなみに、あらゆる防護を脱ぎ捨てて、わざわざ体を破壊すると言うのは、生の肯定ではありません。

わざわざやるのは、自暴自棄、自己破壊です。

不幸にして被害にあった人を差別しないためにも、自己破壊と、物質や命の様態を認識することを区別しなければなりません。

命を大切にすると言う視点がなければ、本当は被害にあった人の苦しみに寄り添うための身体が崩壊してしまう。