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細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

311以降の問題は科学的な問題以前。深刻な私たちの経済社会とそこに適応した私たちの意識にある。

科学などというものはそれが何学であれ、使う側の倫理観がなければくその役にも立たない。視点、そして問題発見と解決にどのように寄与するのかが大事である。しかし今回原発事故で行われているのは権力側あるいは体制側の学者が、何らかの利害関係を持って科学を乱用して大惨事を招いでいる。
しかも往々にしてそれら科学者が振りかざす見解「統計学的に優位な変化はない.
検査のしすぎだ」「病因はストレスだ」などは、疫学や病理でまともな議論ができるレベルの議論ではない。
しかしそういう言説が圧倒的に許されているのはなぜかといえば、多くの人が特定の立場にこだわってあるいは無力感や従属による安心感から思考を放棄したり傍観者になったりあるいはそれら御用学者の見解に言い返す勇気すらないからであって、そしてそのような心理的な劣勢をメディアが増幅させているからである。

そういう劣勢は資本や権力にとって絶好の支配のチャンスなのだ。

私たちの思考は自力で考えることではなく知識や情報の断片を拾い集めることに適するように訓練された。それは歴史的に多層的な事実の認識を不可能にし、文学や音楽などの文脈や流れやパッションのダイナミクスへの共感を急速な勢いで破壊する。
趣味は細分化され誰も互いのところに泳ぎ着くことができない。
それは生活世界の荒廃と破壊につながるのである。
いくら目の前のささやかな現実だけを肯定しようとしても絶えずその毒は私たちの生活に流れ込んでいるのだ。
科学も同じである。
細分化された知識や情報を拾い集めるだけではなく、背後にある人間や生命存在、広大で深遠な環境世界の謎と多義性につまずきながら私たちの人倫を確かめていくためにあるのであって、さらなる破壊、破壊の隠ぺい、隠蔽のことに行きついてはおしまいなのだ。

つまりこれは科学以前の話で、方法論以前の話で、人類を自ら破滅に追い込むまでこれまでの経済社会のありかたを私たちが問い直すことがなければ悪夢のようにいつまでも続くことであろう。
そしてそこに適応した私たち人類の心理的な体制の問題だろう。

それは歴史修正主義や極右勢力の台頭ではっきりわかった。この社会とそこに生きる人は私も含め深刻に病んでいるのである。
目の前の現実、原発事故のみならずすべてのことに絶望し無力化し、それを権力が後押ししているのだ。そして絶望や無力化すらあるいはそこからくる強いものになろうとする心理や強いものにすがろうとする心理すらメディアの影響で見えなくなっている。
見えなくなっているところに戦前の社会を肯定する議論がはびこっている。
原発事故で灰燼に帰した被災者や日本中の人々の苦しみにそれは漬け込み、搾取や人権侵害を肯定するさらなる政策を正当化している。

自分は微粒子の健康影響も放射能の生物学的影響も統計学的なあらわれもいろいろ調べてみたものの、ことはそういう高度な問題ではなく、私たちが悪夢のような経済社会体制から外に出ることができないというただ一つから発しているのであった。
こういうことをナチスドイツの脅威から亡命して戦後研究を開始したアドルノとホルクハイマーやフロム、そして亡命者ではないがリースマンやコーンハウザー、ミルズなどの社会学者や社会心理学者が部分的に解明したのだしそこにはハンナアレンともいる。
しかし私たちは第二次大戦の悪夢の全貌をまだ見ていなかった。原発が爆発したことで、戦争や戦後隠蔽されてきた暴力そのものが顔を出し始めているのだ。

その暴力とは戦争だけでなく戦後もある形で絶滅権力が作動し続けてきたということだ。
そうでなければこんな不可解なことは説明ができない。


早く問題の大きさに気付くべきだ。