細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

もう傷つけないで。殺さないで。ー私が放射能について考える理由


私は、長らく持病を患い、心身不安定な中を生きてきた。
福祉の資格をとり、体力面で就労はできないが、ひとが困難を抱えながら命を大事にするあり方を考えようと
してきた。

原発が爆発したときにとても恐ろしかった。
まずは、自分の命が傷つけられることを恐れた。なぜならチェルノブイリ原発が爆発したときですら、日本にも放射能が来たのを知っていたからである。
西日本はあまり放射能汚染されなかった。しかし、福島を始め放射能が降り注いだから、人々の命や生き物の命は傷つけられているはずだと思った。

私は怖かった。

命はもちろん他人と自分の命は異なる人生を生きる。また反対に安易に運命共同体のように、つまり戦時中のように一億が火の玉になって一体化されて語られたりもしてしまう。
震災の時、「絆」という言葉がもてはやされた。
それは人間の他の命への「愛」や「思いやり」「連帯感」に似ていたがしかし似て非なるものだった。
愛は強いものだが個人の尊厳を守る。
しかしそれとはちがうものだった。
権力者や資本は、「みんなで痛みに耐えろ」ということがいいたいために、あえて同調圧力を絆の美名にくるんで、「みんなでちょっとくらいの放射能は分かち合えばいいじゃないか」と、瓦礫の汚染を大したことがないといい、とてつもなく高くなった基準値以内の食べ物を安全だから助け合って受け入れ消費しあいなさいといった。
そしてそれに従わないひとを「怖がりすぎだ」「エゴイストだ」と決めつけたのであった。
しかし、その裏で国は被害を認めないために農水省環境省が莫大な税金を浪費して宣伝をしたり学者に科学的に慎重に検討させないで、安全宣言をさせた。また、肝心の被災者支援をしていないのは明らかだった。

私は嘘が嫌だ。ぱっと見て嘘に見えにくいので
今回の嘘は余計に罪だと思う。

私が瓦礫に反対したのは、まず自分が放射能が恐ろしいと感じていたこと、つぎに直感的に政府や電力が放射能汚染を大したことがないから、被害を償わない姿勢でいたからだ。

放射能被害が明らかにならないで困るのは被災者である。彼らは家や土地を汚染され、健康に不安を抱えざるをえない。なぜなら、被曝したという事実がまず認められないと彼らは補償や健診や移住にかかる費用をもらえない。

つまり自分が命を傷つけられるのは嫌だという思いが、たくさんの東北関東の避難者や適切な支援を受けられず、くるしんでいる人々とつながった思いがした。
東北の首長やマスコミにも、瓦礫は急いで受け入れなくても瓦礫防潮林の土台に使えるという人々があらわれた。
たくさんの自治体の首長が国が放射能の基準を変えたことに不信感を覚え、発言した。

もちろん私が自分の身を守りたいというのは私のエゴである。
しかし、私のちっぽけな人生の経験では仕事でも芸術でも病気の治癒ですら、私自身から考えるという態度なしに良いものにはならない。

またより、哲学的に考えるなら私も他者も地球や宇宙の素材から構成される生命なのだ。
私は放射能を恐れたり恐れるひとをバカにする現象には実は普遍的な何かが潜んでいるのではないかと思う。

放射線は、なぜ人体に影響があるか。人体はタンパク質分子が二割、七割が水である。
放射線は水を分解してフリーラジカルを発生させる。フリーラジカルは酸化を促進し生体内の環境を悪化させる。さらに深刻なのはタンパク質破壊である。タンパク質分子は、数〜数十電子ボルトで結合している。
それに対して放射線のもつエネルギーは数十キロ電子ボルトとか数メガ電子ボルトで、生体内のタンパク質分子の結合エネルギーの数万から数百万倍である。
もちろんタンパク質分子は多数存在するし修復はされるが、頻度が高くなるとミクロな次元で、人体の構成はいためられる。実は細胞はそれぞれエネルギーや酵素をつくる機関を細胞内にもち、また様々な神経系統は微弱な電流で情報を交換している。
破壊が頻繁になれば、ホメオスターシスに影響するのは、私のような土素人でも推論できてしまう。
またあるDNAが放射線を受けるとDNAに蓄積された放射線影響が他のDNAに伝達されるバイスタンダー効果も発見されている。
またDNAはがんを抑制したり特定の病気を抑制する部分をもっているし、発達する丁度いいときに情報を発現するエピジェネティクス機能がある。
DNAが破壊され誤修復された場合、発がんのリスクがあることを全米科学アカデミーBEIRや国際放射線防護委員会も認めている。

人間の人体はミクロな宇宙だが、放射線は確かにそれを撹乱するエネルギーなのだ。
原爆被爆者や医療放射線の統計的調査によれば、その影響に安全と呼べるレベルがないと確認されつつある。これは外部被曝であるが。
内部被曝は原爆でも軽視されてきたことが
日本の原爆症認定訴訟で被爆者や科学者が明らかにし
司法レベルではことごとく被爆者の主張が認められ
内部被曝外部被曝の効果は変わらないとする
政府の主張が退けられている。

距離や遮蔽もなく放射線が体内を直に通過するのだから
外部被曝ではあまり問題にならないβ粒子やα粒子も
問題になり、体外からと同じ効果や影響であるとは
普通に考えて言いがたいし、メカニズムや効果がわからないとしたら
それは被曝したものが悪いのではなく
科学者や研究をさせている政府に問題がある。

人体はこのような負荷にさらされている。似たエネルギーに、紫外線があるが、紫外線が皮膚がんや目の病気の原因 なのは知られている。UVカットを気にするのに放射能は気にしないではつじつまがあわない。
いたずらに危険を煽るつもりはないがメカニズムや国際的な知見を話せばこうなるという話をしている。
余分な負荷が人体のホメオスターシスを崩す。
壊れやすいひとと壊れにくいひとは
放射線感受性の個体差や体調などで決まる。
あまりにも残酷だ。

なぜ放射線が人体にダメージがあるかといえば、答えは簡単である。人間は、核エネルギーではなく、化学反応によるエネルギーで生きているからだ。放射線はちがう。原子核を構成するつまりは物質の根本からはなたれるエネルギーである。
人間や生物は酸素や様々な金属元素を使って生体を化学的に構成している。酸素などももともとは酸化エネルギーがあり、カリウムやナトリウムも反応性の高い金属だが、これらを長い生命進化の過程で応用できるようにした。

放射性セシウムはこの過程で人類は出会っていない。
また放射性と非放射性を区別できないため
放射性ヨウ素を必須元素として取り込み
被曝してしまう。
なのに、わが政府はヨウ素剤を配ろうともしない。
科学がないとしかいいようがない。

生命は海から誕生したわけだが、水は宇宙の放射線を相当遮蔽しただろうと思う。酸素が増加し、分厚い大気で覆われ、地表から放射線が減っていくにしたがい、複雑な生物があらわれた。放射線は天然にも存在するが、カリウム40などは体内に均質に分布し、代謝をコントロールしている。尿や汗はミネラルを代謝し体内の電解質のバランスを変化させ体温を制御している。
そういう場所に異質で人類がここ数十年しか出会っていない放射性セシウムを入れれば、もはやこれは壮大な人体実験とよべる愚行だろう。化学物質についてもたくさんの物質を作り出し環境を変質させたということは環境学的な常識だが放射能も同じであり、アインシュタイン、サハロフ、レイチェル・カーソンら偉大な20世紀の科学者は放射性降下物の環境汚染に警鐘をならしている。うち二人は核開発に携わった人間で、アメリカのカール・モーガンやジョン・ゴフマンのような核開発において政府側で放射能を研究し、危険に気づき政府に警告を与えた人物が20世紀の歴史には多数いた。カナダのペトコウ、アメリカのマンクーゾ、タンブリン、ラドフォードなどもそうだ。

放射線を恐れたり恐れたひとをバカにする現象から話は飛んだかもしれない。
しかし、私は放射能の問題は私たちが私たちの人類史や命に
ついて感じ学ぶ新たな機会だと感じる。
この大切な点を忘れると私たちは次なる事故を起こしたり
また間違いを繰り返すと私の直観が教えている。
みんなが放射能について考えるときのタブーに触れるのに
似た感覚をことばにする必要があると思う。

人間の命の儚さ、強さについて、僕は病気を通じて 学ばされた。
生命は精巧なバランスで成り立ち、実は生命は強いようで弱く、弱いようで強い。
しかし放射線が生命と原理的に相いれないことは、はっきり証言している科学者はたくさんいる。
自然世界にある以上に放射線を増やして、それでも目先の経済や権益を獲得し痛みはより小さいもの、弱いもの、未来におしつけて、知らぬとするのなら、破滅は近いだろう。

私たちは狭く汚染された世界でこれからも生きていかねばならないのだ。そのとき放射能の塊である核や原発をまだ続けるつもりなのか。
私の弱い体が、様々な生命と呼応しながら、警告と嘆きを発している。
見えなくても聞こえなくても死の足音はやってくる。
たった何人しか死なないからと確率を計算して命を粗末にしないでほしい。
生きられるところまで生きる。
自殺を考えたこともある私からの倫理的なメッセージかもしれない。

これ以上傷つけられたら私たちは倒れてしまうだろう。
もう傷つけないで。
殺さないで。お願い。