細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

3つの革命ーまどみちおさんの死の知らせに接して

まどみちおさんが亡くなられた。104才だった。
まどさんの詩に、ビビっと来たのは遅くて、27くらいのときだと思う。介護の仕事をしていたが、悩みがいっぱいになって、体も辛い時期だった。
私は大阪文学学校というところに一年くらい通っていて楽しかったが、だんだん文学的な議論にも飽きたらなくなってきて、文学学校は一年で修了した。
修了したあとも下手くそなりに詩をかきつづけていて、まどさんの詩をハルキ文庫というところから出ている選詩集で読んだ。
そのハルキ文庫はいまどっかに片付けてしまっているが、私は本当に救われた気がした。

といってもこの辺りのことは記憶が曖昧で、前後関係は不確かだが、まどさんの詩が素晴らしかったのはちゃんと覚えている。
まどさんの詩は表現としてはまったく難しくない。長らく愛唱されてきたように。しかし実は身近なものに宇宙をちゃんと感じている。そんなとてつもなく哲学的なことが、ひらたい表現で書かれている。
お経とか分厚い哲学書に書かれていることが、短くわかりやすい韻文で出来ている。

私は実はこういうことをできている詩人は稀有であり、稀有であるにもかかわらず、その偉業に与えられるべき名誉が、現代詩の世界ではなぜ与えられないのかと首を傾げていた。
もちろん、子供に歌われ国際的な評価も受け、児童文学としては国内的にも古典に位置するのだから、それで十二分かもしれない。

しかしほぼ存在論的な革命というものをまどさんは優しい詩の中でやってのけている。その奇跡性。

当時30前の私には、まどさんのやっていることは地味だが革命的だった。
それから心身の具合が悪くなり生活が破綻して親元に帰って詩を書いていた。詩を書いてもお金は増えない。詩はまったく売れないし詩の雑誌はどんどんつぶれた。

大阪市内で過ごしはじめてあるとき、まどさんの全詩集を読んだ。まどさんは台湾の出身である。当時日本は台湾を支配していた。その頃にまどさんは詩をかきはじめ北原白秋に見いだされる。北原白秋についても戦争との関わりについて論じられている本があるが、まどさんについても例外ではなかった。
全詩集のあとがきにはまどさんが、戦争体制に協力する詩が全詩集を作る過程でみつかったこと、忘れかかっていたものが見つかって気まずかったこと、戦争に加担してしまった反省の気持ちなどが延々と書かれていた。
私はそれを読んだとき驚いた。あまりにも率直に明確にまずかったことをまずかったこととしてきちんと書いていたからだ。
とにかくあったことを事実として認める。
まどさんがしたことは本当によくないことだったが、それを忘れかけていたことまで含めて書いている。
当たり前なのかもしれないが当たり前でない感じを私はまどさんに感じた。
まどさんの詩が革命的なら、戦争との関わりについての身の処し方も地味だが並大抵ではない。しかし本当はこれをあらゆる大人がせねばならなかったのにしなかったことが今巨大な政治的危機を生んでいる。
私はまどさんや、私の祖父や本多立太郎さんにそれを学んだので、おかしな「愛国」ブームには騙されない。
また原発事故の加害者の卑劣さにも騙されたくない。

まどさんは90台後半になり百歳になっても詩をかきつづけていた。私は友達が子供が出来たときにもプレゼントしたが、まどさんの筆致は衰えていなかった。これも革命的だったと思う。
老人ホームに入ってケアスタッフに車イスを押されながら木の葉を見つめているまどさんや、認知症になった奥さんと楽しそうに談笑するまどさんの姿をとらえたテレビ番組を見たこともある。
まどさんは木の葉から詩を着想できる。本当に詩が出来るかどうかではなく、そういう姿勢で生きているという倫理観を感じたのだった。

私は子供のとき「いちねんせいになったら」の歌が好きではなかった。ともだち百人できっこない、というかともだちを作らないといけないプレッシャーがいやだった、私は人が怖かったからだ、だからまどさんにだって違和感を感じるときもあった。まどさんは基本的に健康で昔ながらの男性だったし、それゆえの道徳や少年らしさは、古いタイプの男性ならではのものかもしれない。
しかし、まどさんには地味でも大きく確かなものがあった。儚い命が宇宙に存在する奇跡を歌い続けた。その地球や世界が破壊されていくこともまた、まどさんは受け止めていたのだろうか。
あまりにも巨大な存在だった。長生きしてくださってありがとうございます。私はこの国も地球も心配でなりません。
もう少しずつほろびゆく世界から、果てしのない無尽の世界へ、私たちより先に旅立ったまどさん。

ぼくが ここに まど・みちお

ぼくが ここに いるとき ほかの どんなものも ぼくに かさなって ここに いることは できない

もしも ゾウが ここに いるならば そのゾウだけ

マメが いるならば その一つぶの マメだけ しか ここに いることは できない

ああ このちきゅうの うえでは こんなに だいじに まもられているのだ どんなものが どんなところに いるときにも

その「いること」こそが なににも まして すばらしいこと として

http://www16.ocn.ne.jp/~ondoku/gr4bokugakokoni.html

まどさん、私たちは守られていますか。あるいは、ただ生きていることそのものが「守られ」だとしたらこれは生きることの厳しさを気高さを歌っているのかな。
まどさんありがとう。まどさんさようなら。