細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

あせらず歩み続けていこうー柏崎刈羽原発安全審査と泉田知事の行動の意味

新潟県柏崎刈羽原発安全審査を東京電力が規制委員会に提出することを条件付き容認したことについて、記事をかいた。
正直泉田知事も限界かなと暗い気持ちになっていた。
http://d.hatena.ne.jp/ishikawa-kz/20130926/1380199408

すると
Twitterで@hamajayaさんから「泉田知事はなぜ会談翌日に東電の安全審査申請を容認したのか」 http://t.co/jztbvW9oda
という記事を書いたとお知らせを頂いたのでさっそく読んでみた。

もう少し泉田知事の行動の意味や状況について私は丁寧に語らねばと思わせてくれた。

@hamajayaさんは、原発瓦礫問題で新潟県の動きをしっかり伝えてこられた方だ。
推測であると謙遜されているが、知事の発言や再稼働をめぐる全国的な状況を鑑みた大変優れた記事です。
引用します。

私の推理が正しいとすれば、「まだ早い!」の 一本やりで東電の暴走を放置した場合、新潟県 は完全に蚊帳の外に置かれる形となり、安全協 定は形骸化し、新潟県として東電のようないい 加減な事業者を縛る重要な手立てがなくなる。

本来なら現時点での安全審査申請もうなずきが たいところだが、原子力災害から県民を守るた めの新潟県の役割をゼロに近い形にされてしま うよりは、交渉力をもってして、国・経産省を バックにつけた東電の「新潟県抜きで再稼働ま で突っ走ってしまう」戦術を一旦打ち砕き、た とえ影での交渉の成果であろうとも、きちんと 手順を踏ませ、譲歩もさせる、という苦肉の策 をやってのけられたのではないか。

このように考えると、今回の唐突にも思える流 れが、疑問なく理解できるように思う。

つまり、新潟県が、泉田知事がつけた下記の「 条件」は、この数日の、壮絶な隠れたやり取り の中で、死力を尽くして泉田知事が勝ち取って くれた成果ということになる。

裏側に東京電力が経営に固執し、それを国も容認し、さらに全国でも再稼働に向けた安全審査申請が進んでいる、原子力規制委員会がどこまで歯止めになるか疑問があるという背景をみれば、知事には残された時間が少なく、東京電力に徹底した事故検証を求めたかったが、圧倒的に劣勢な中では、フィルターベントで住民の被曝をさせてよいのか、という問いをつきつけ、東京電力の事故対策は住民の安全を守らないのか?という自治体としての意見を表明するために「条件付き」で審査提出を容認したということだろう。

繰り返すが楽観ではなく圧倒的に新潟県が劣勢ななかで、電力は全国で再稼働を準備している。事故以来最大の危機といっていい。そのなかで新潟県が県の原子力防災協定を生かす形にするには、発言権を維持するには「フィルターベントでは事故対策にならない。例え圧力上昇が防げても、住民の被曝は防げない」という東電の弱点と刺し違える形で容認するという手段をとったと。

泉田知事は原則を重んじる政治家だが、それて押すだけでは東電や政府が頭越しに決めるという展開もありうる。
関電における大飯再稼働みたいになってしまう。県知事は発言力を失い、国の意向をくむ形で立地市町村がごね出したら最悪になる。そうならないようにしなければならない。無限に時間があるわけではない。

新潟県知事は保守系であり経産省出身でもあり、私たち市民のような形での反原発の意思を表明してはいない。だから、新潟県知事は裏切ったとか、体制側だからと落胆するかたもいる。それは一理あるかもしれない。
しかし、こうも考えられないだろうか。瓦礫でも避難者支援においても、政府の政策の不備を追求し、環境省などとの対立を泉田知事は怖れなかった。
泉田知事の軸には地方の自治を尊重し、住民の安全を訴えるという軸がある。
(因みに私は彼の州構想には疑いを抱いてるがそれは置く)
地方行政官としては、国や企業が誤っているなら法令や政策的な批判をまず徹底している。
国の中枢にいたからこそ、内部の論理を砕く勘のようなものを持つ。
それは体制側で身につけた思考だが、私たちはそれを目繰り返すような優れた、太い眼差しをも泉田知事の原発放射能問題に関する行動に感じていたのでもなかったか。

あるときはそれは反原発市民からは理屈っぽくあるいは物足りないかもしれない。しかし彼が原発反対にもっとも近く主張にも一定の道理がある以上、私は泉田は裏切ったとだけ考えるだけではなにか足りない気がしてならない。
それは国が法律や制度を駆使する以上、そのあり方を変えるには、民意の盛り上がりとそれを吸収して共に制度をロジカルに批判する行政官、政治家も必要だからである。



泉田知事が命を投げ出しても再稼働反対を貫くべきという意見もあるだろう。ただ、いま原発立地自治体であそこまでできている人物は他にいない。彼が失われて原発反対の市民だけで再稼働を阻止することは難しい気がしている。東京の反原発の一部の狼藉をみればなおさらである。

公害の時代においても公害問題に熱意を持った学者や行政マンと、市民が共闘しなければ公害防止の環境法体系が築かれることはなかっただろう

確かに再稼働反対で突っぱねて、スッキリということはある。ただ、反原発の社会的基盤は東電と政府の複合体よりまだ、少し弱い。世論は原発反対基調だが、保守が権限を握っており、世論がまっすぐ制度に反映されない体制だ。法律、行政しかり。

泉田知事もまた行政の人間であり、私たちとはちがう観点を持つ。そしてまた泉田のみに強い負荷を与え続けることも難しい。
泉田が提起したフィルターベント問題は、つまり事故の処理のためなら、大気に放射能を放出させて住民を被曝させることを東京電力は許すのですかというクリティカルな問いになっている。日経紙が誤解するように、フィルターベントをさせないという物理的な手続きの問題ではない。使わせないも何もフィルターベントについては申請させない歯止めを作ったのだ。フィルターベントは、というか事故が起きれば電力はともかく放射能を出してでも、圧力を抜くのを阻止できないのを、泉田はわかってるはずだ。そうではなく、住民に何も知らせないままいきなり被曝をさせてよいわけではない。被曝をさせるフィルターベントについては、原子力事業者や政府で決めるな私たちに判断の権利を持たせなさい。住民の健康を脅かす問題を住民以外が勝手に決める。こういう意識では福島の事故の総括をしたといえない。
そう泉田はいいたいようにみえる。
泉田は瓦礫問題でも原子力事業所外のほうが、管理が緩くなるのはおかしいと問いかけてた。
もちろん住民は重い判断をしなければならないが、そうして住民が表面だけでなく中身で危機管理の話をしなくては、原子力から自立したとはいえない。

彼は原子力をやめるかどうかについてはあまり話をしない。そういう意味で彼は市民的な反原発ではない。彼は住民を被曝させない原子力のあり方はない、そんなあり方であなた方は責任ある事業者といえるのかと立地県の行政から問いかけているのだ。
それは手ぬるい問いなのかと考えたとき、関西にそういう問いかけをして、関西電力と対等に話ができた知事や市長はいないことから、泉田は興味深い問いかけをしていると思う。
泉田の今後を注視し自分たちの自治体の首長ももっとしっかりさせ、
泉田に政治家にまともな姿勢をとらせ続けるのは世論であり市民社会であり私たちの仕事でもある。危機的でギリギリなのだから。
仕事が忙しすぎて政治に参加できない在り方も変えなければならない。
投票で一か八かではなく複数のチャンネルがあったほうがよい。
そう思い、Twitterやblogを書いたりもしている。

市民社会が真剣に日本の不公正な体制を変えることを考えなくてはならない。
難しいしめまいがしそうな社会だ。
次の事故どころか福島の事故すらも終わってはいない。どころか危機は続いて汚染は拡大している。
ならば、原発を否定する強い社会的な意識を広げることが必要でありそれはシングルイシューではなくありとあらゆる人が人権を大切にし批判的な思考をして、常に自らのふるまいの意味、間違っていることを間違っているといえる権利感覚、シティズンシップをどんどん発露する以外にない。
基地やTPPなどと連動した再稼働の動き。
私たちの社会は破局を目指しているかのようだ。
あらゆるひとの知恵をあつめる。
ことに、ドイツの脱原発に寄与したのが、宗教学者、哲学者、社会科学者であることを考えれば、あらゆる分野の人々の活発な議論と行動が市民と連携し世論を分厚くする必要がある。
なぜなら、学者のひとも企業のひとも専門や利害にはさまれて、力を発揮できず、市民が疲弊していくのを瓦礫反対でも感じたからだ。

いま必要なのは広い議論を通じた反原発の社会的な基盤の形成である。それは政府との対立も含むだろう。しかし、政府や財界の圧力や福島の深刻な現状をみれば、時間が少ない。泉田知事の急展開はその中でとられた窮余の、しかし強い東電への打撃であると解釈しうる。これは泉田知事に対する期待であり、裏切られる、あるいはちがう展開になることもありうる。
しかし反原発に残された時間の少なさをさしている。基地やTPPも待ったなしであり、仕方ないと諦めたい気持ちにならないわけでもないが、なにか言い考えて、社会が一ミリでも動くならそれはまたよいではないか。

世界は滅ぶ可能性すらある。
ただ、あせらず、歩み続けていこう。