細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

内と外

 誤解を招く表現かもしれないが、家にいることも大変なことが多いし、家を出てからも大変なことが多い。
 家を出て自分で、あるいは誰かと暮らす場合、単に「甘えはダメだ」では生きていけない。互いに協力したり自分が無力な時は思い切って人に助けを求める勇気も必要だ。それが相互の連帯である。
 
 野宿者支援の生田武志氏の話をかつてきいたことを思い出す。彼は女性の野宿者、ホームレスに話を聞いた。するとその中で家で配偶者などから暴力を受けていたのが辛くて家を出て路上に来た人もけっこういたと。彼女らは次のように言う。
 家で殴られるよりは路上の方がマシだ。路上は危険だけどそれでもと。*1

 いそいで付け加えねばならないのは、男性だから安全だということもない。また家が時によって生殺与奪の危険を伴う場所だという認識は虐待やDVの事例で少し認識がひろがったものの、家の外でどのように「くつろぐか」ということがまだ出てきていないということだ。くつろぐ、住まう、共に生きるといおうか。それに必要な思想、インフラ。
そのような「くつろぐ」ために「いきる」ために必要なインフラは逆に例えばセキュリティの強化によって公園のベンチが減るように、減らされている。社会保障も「無駄」といわれかねない現状だ。
 
 ただ単に「家庭的なもの」「みんな仲良く」が押し付けられるだけでは、人が助け合う空間は広がらない。同質性では萎縮する人が多い。(知らない者同士での連帯の空間の必要性)

 これでは人が社会的・公的な領域に出る勇気は持てない。さらに私的領域に退却するし、公的空間はさらに生きにくいものになる。このことをデフレはさらに加速させる。
 今「若者ホームレス」を読んでいても感じることだ。

 公私の概念も家の外と内の影響のある言葉のように思う。privateの語源は奪われてあることである。近代以降はprivateという言葉は政治にも欠陥があるし強制力もあるので怖いということで、いい意味にもなったのだが、もともとは公の権利がない状態みたいな意味だったと思う。「公の権利がない」が自分の閉域にこもることと同義だった。これは西洋の思想において、家で働くものが下に見られていた伝統からも来ていて、ある意味危険な概念である。

 家というか住まうということも、その外の市場や広場、自然に出ること両方人間存在に必要なのだ。

 公というのは強権的な政府を指すこともあるだろうが、多くの人がともに存在するための保障として存在するという側面があるだろう。それが単に滅私奉公に働いたり、公の概念が強く働くと危険だ。しかしそれを解体しようとする方向も警戒しなければ危険である。
 バランスを取らないと人の生きる公的空間が摩耗し、人は恣意的な力関係の渦に巻き込まれてしまう。(もちろん絶対安心な政府や公的セクターはないとしても)
 

*1:また女性のホームレスの場合、男性社会的なホームレス共同体になじめないことも多い。性被害もある。(路上は男性にとってもむろん迫害にあいやすい。というかこれほどまでに外が生きにくい空間になったのはなぜだろう)