細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

社会適応について-id:ueyamakzk氏とid:contractio氏の論点のすれちがいを検証する

おおげさな表題をかかげたものの私自身、「社会適応」や「社会復帰」といった生活困難者が目指すべきと医療、福祉などでいわれる目標について、いろいろ疑問をもち、昨日も主治医とお話してきたところだ。
というわけで、上山さん(id:ueyamakzk)と酒井さん(id:contractio)の議論について、何か「知った」立場からお話しすることはできない。また私は私個人の葛藤解決をどうにかしたいという目的でお話するのであって、それぞれのお考えに寄与できるかどうかわからない。またそれぞれの人生はまずはそれぞれ納得行く形で過ごされればよいわけであり、私のお話がクロスしない部分もいっぱいあるだろう。ただ、もし何か補助線を議論に引くことができればと思い、お節介ながら討議に加わるという形になる。

それだけ断っておけば、まずはいいかなと思い、話をすすめる。

問題化の手続き - Freezing Pointより、さてまず上山さんがまず問題にしておられる部分を見てみよう。

拙エントリを受けて追加された酒井さんのコメントより:

* 上山: 「逸脱研究」という問いの作法が先にあって、そこから若者を見ようとする、メタ視点への欲望

──そうじゃなくて。 ヤンキーたちは「逸脱」してようがそんなに困らないよね?という話でした。 (はてブ

日本の大学進学率は、1990年で25%くらい、2000年で40%くらいであるらしい(Wikipedia:「進学率」)。

「学卒即就職」という「ライフコース」ビジョンは、そのパーセンテージ周辺の人たちにしか関係がない。 たとえば、多くの「ヤンキー」には、こういうビジョンはぜんぜん関係がない。また──ヤンキーではなくても──たとえば高校生活を地方都市でおくった私にとっても、「大学に進むか否か」というのは 明確に「選択の問題」であった。(実際 私自身はかなり悩んだ末に進学を決めた。) (参照)


「そんなの、一部の恵まれた人間の悩みでしかない」というお話でしょうか。

以下、関連しそうなことを少し箇条書きにしてみます*1。

上山さんの疑問は「ヤンキーや酒井さんはよろしくやっておられているからいいとして、しかしひきこもっている/いた私や私以外の人はどうすればよいの?」という風にわたしは捉えた。
しかし酒井さんが「ほっておけばよい」と思っているなら、酒井さんは上山さんと議論をすることはなかったはずなのである。酒井さんがどのような意図かはまだわからないが、上山さんの議論に関わる意志があるから関わっているだろう。

酒井さんの「ヤンキー」を引き合いに出した目的は、酒井さんのエントリー2010-03-09 - 呂律 / a mode distinctionに戻るなら、

この箇所とか、自分にとっては──「世の中には こういう考え方もあるのか!」的な意味で──衝撃的だった。[p.143-144](石川良子「ひきこもりのゴール」より:id:ishikawakz註)

[...] ここでは、Aさんにとって 学卒即就職という選択肢は、唯一絶対のものであった ことを指摘したい。「別に就職しなくてもいいじゃない?とは思わなかった?」という質問を投げかけると、「そう思えてたら最初からひきこもりには、なってないですね」という答えが返ってきた[5-12]。

  このことはBさんにも当てはまる。彼に「あるべき姿じゃなくてもいいんじゃない?とは思わなかった?」と投げかけたところ、彼は「発想がなかったね」と答えて、こう続けた。

 これはちょっとイレギュラーだろうと思ったんだけど、で、後々振り返ってよく考えたら、うん、ほんとはその将来のこととかいうのはもっと中学とか高校とかそういうときから考えとくべきだったんだけど……全然考えないでいた、確かに。だから、大学まで推薦でとりあえず、まあ、そこそこ成績があれば行けるし、大学行くってところまでしか考えてなかったから、ここで何をするとか、その先どうするっていう、あの、概念が全然なくて、大学まで行くってしか、全然なかったから、確かにそのつけをきっと払わされてるんだろうなって思うけど。[5-14]

つまりこのようにしてひきこもっていく経路自体が酒井さん自身のこれまでの人生経験に照らし合わせると、経験のなかったことであり、上山さんの議論に関わる上で、この驚きは意味のあるものだろうという意味であろうと私は感じた。(もちろんその驚きの中に違和感や逆に発見様々なものを読み込むこともできるかもしれない)
酒井さんはこの後書いているが、

「学卒即就職」という「ライフコース」ビジョンは、そのパーセンテージ周辺の人たちにしか関係がない。 たとえば、多くの「ヤンキー」には、こういうビジョンはぜんぜん関係がない。また──ヤンキーではなくても──たとえば高校生活を地方都市でおくった私にとっても、「大学に進むか否か」というのは 明確に「選択の問題」であった。(実際 私自身はかなり悩んだ末に進学を決めた。)

つまり酒井さんのこれまでのライフヒストリーでは、酒井さんは地方出身者であり、大学へ行くこと自体が物理的に精神的に(おそらくはまず就職が第一選択にならざるをえない、大学にすすむとすれば例えば地方からでるなど、経済的にあるいは本人の身からしても相当の覚悟がいるということなど)都市出身者との差異が大まかに言ってあるのではないかということだ。
私も想像したりするし、人に聞いてわかることは地方出身者の大学進学は例えば、下宿など非常に大変な面があるのではないかということである。

こういう議論を出すことで存在する意義は、「ひきこもっている」という人の状況にも様々なものがあるのではないかという予測であろう。

ただし、そこでそこから上山さんのかねてからの論点や不安が惹起されるのである。

「ひきこもりは贅沢病だ」「突き放す勇気を持ってほしい」というのは、ご自分がその話で終わらせられる立場にある人の言い分で、正しいけれども、その正しさは抽象的なものでしかない*4。

もちろんこれは直接的には、酒井さんの言葉からはずれている。しかしこうした上山さんの怖れが出てくる理由はそれが「社会適応」あるいは上山さんの言葉で言えば、「制度順応」や参加の問題系にかかわっているのである。
しかし酒井さんは上山さんとことなる形であるが、もし「当事者」に「社会から逸脱してしまった」という意識があるのならば、それは相当個々や置かれた社会状況の偏差が見られるのではないかということではないか。上山さんは酒井さんの発言を「他の人がよろしくやっているならそうしろとひきこもりにもいうのか?」と取るのだろう。上山さんのお立場から考えてそう解釈するのも無理ない部分もあるのかもしれないが、しかし酒井さんは部外者の立場から「ひきこもっている」ってどのようなことなのか理解しようとして、自分の経験と照らし合わせて「衝撃」を受けたといっておられるのである。

引きこもりをより広範な「実態に即した」状況で捉えるならば、これは上山さんにとってもある程度意義のある補助線ではないかと思う。それはある意味ひきこもりをめぐる支援の議論界隈とは、外部の視点だから(それが上山さんからみて暢気なものであろうと)である。もちろん酒井さん以外の意見を持つ方もいるだろうし、私も後に書くが個人的な観測をもつ。それぞれのわたくし的な観点をつきあわせて議論をするのが狭い支援業界を打破するひとつの方法ではあると思う。むろんいかなる議論の仕方を上山さんが構想される自由は誰も否定しない。また酒井さんや私やあるいはもっと他の論者の意見を全肯定せねばならんという話でもない。上山さんや、あるいは私も酒井さんもそれぞれご自身の見解を高める上で有益なものを参照したらいいわけなので。それ以外の意見に関心を持たない自由もあるし。(上山さんをめぐる状況はそんな暢気なものではないかもしれないが私も安穏としているわけではない)

地方にひきこもりがないわけではない。それを放置しておいていいわけもない。ただ、それぞれの置かれた状況に即して実態解明し、その上で「いかに」それぞれの「ひきこもっている人」やその周辺の方々の生活(QOL)をよくして行く必要がある。

もしかしたら、上山さんは酒井さんのいうような観点も踏まえた上で、しかし「放置は問題だ」と発言されているのかもしれない。

だとしたら私は次のような視点が考えられると思う。
酒井さんは確かに「逸脱論」というフレームに依拠している部分があるのかもしれない。ただ、ここでハマータウンの野郎どもと類比的に語るなら(参照:楽天が運営するポータルサイト : 【インフォシーク】Infoseek
「ヤンキー」≒野郎どもは、過剰適応(過剰な良い子)ともいえる「ひきこもり」(≒耳穴っこ)の状態と比較するなら、ある意味で脱適応的なように見えて様々な肉体労働や製造業といったある程度古い権力構造(フーコー的な意味で規律権力的)に「暴走族」や「遊び」を「卒業」して適応するのはなぜか。また彼らはある定型的な通過儀礼を経た後、既存の制度になぜ「適応」可能なのか。そのヤンキー≒野郎どもの「適応」は、ひきこもっている人が抵抗を感じる種類の適応ではないのか
という問いが考えうるからである。(私は、ヤンキー≒野郎どもも公共事業の激減などにともなって失職しているケースが増えているかもしれないとも思ったりする。)

ここで焦眉になるのは「適応」ということではなかろうか。
私はヤンキーも、ひきこもっている人もこの社会における別種の適応の形であると思っている。しかし、ヤンキーがおそらくは「上下関係」に疑いをあまり持たないと仮定すれば、「ひきこもり」はそこに様々な葛藤をもってそうなるのだと思う。

自分がうまくやれている、正常にやれているかどうか、これは公正な関係かどうかなど様々な事柄について様々な疑問や恐れや不安を持った結果、そのことに足をとられて、身動きがとれなくなり、そのことが参加を難しくしているということなのではないだろうか。だから旧来型の外に向って文句をいう方の「反社会」とはちがう。それどころか、上山さんも再三指摘しているように、ひきこもっている人のある部分には過剰に「良い子」でなければならないと思い込み、自分のことも周囲のことも非常に過小に評価したり、動けない自分を正当化しようとしたり逆に自罰的な思考にはまったり、上げ底の(実際の経験や場合に裏づけられない)自己愛が肥大していく場合もあるようだ。(これらは私もいくつか経験がある)

もしこのことが本当だとすれば、問われるべきは話を私なりに変えれば、ヤンキーもひきこもりもそれなりに「無力化
されているがヤンキーが曲がりなりにも働いている「印象」があるのに比べ(私はヤンキー出身で建設業に就職し、アルコール依存症になった例や精神病を発症した例を知っており、彼らの実態も深刻であるかもしれないと思うが)ひきこもっている人は社会参加する力を自らと周囲からの相互作用によって失われ、あるいは奪われておるため、雇用-労働はおろか近所を散歩する、遊びに行くといった基本的な「生きる」の範囲が縮小されていると見る。

そして、それはやはり適応がどうだという以前に人間の「尊厳」や「自由」にとって、深刻な事態なのである。

それが発生するきっかけは非常に個別的な部分もあるだろう。しかしそれを「上げ底の自己愛」やあやふやな何かで埋めることは上山さんとともに私も賛成ではない。必要なのは実際に彼ら、彼女らが自己自身の生を展開させる機会を取り戻すことである。生を展開させるためにどのような準備や支援が必要かということだ。次に続く。