細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

と思うんだ最近

 とにもかくにも自分を台無しにするようなことはしたくないなと思う。命がけで戦うというのはカッコいい言い方だし、そういう気概をもう必要はある。しかし無理に力を入れずとも解決できるなら、泥まみれにならなくてもよいし、自分が惨めにならずに戦うやり方が現実にあるならそうするほうがよいとおもうのである。
 いくつか惨めな目にあったことがあり、泥や砂を口に入れるような涙も枯れるようなこともあったと思う。その中で自分がこれを大事にしたいという価値の感覚が感じられない中で、そう感じるのと、とにもかくにも自分はこれを選んできたという自覚やまあ仕方ないという感覚の中で泥をなめるなら、後者の方がよい。

 闇雲に自分にぶつかってきた敵対者と戦っても戦力を消耗するだけである。自分が惨めな思いをした、ということは確かに悔しいことであるが、その思い出の奴隷になってはならない。

 すべて現実的に考えて無理筋なものは通さず、肝心な論点で戦うことである。多少の融通はあっても物事を台無しにしないことだ。肝心の論点や自分にとっての価値を形成していくための試行錯誤はほとんど実は妨げられていないはずである。自由なのである。

 たとえば、みもふたもない話であるが失恋して、何年もして、目がさめるときと、その人をうしなって二度と取り返しが付かないと気づくことの両者があるとする。もしかしたら一生その人の幻影を求めてさまようのかもしれないが、そのときの精一杯は尽くすということだ。もしどこか変な感じがあったとしたら現実とうまく接点が取れず、あるいはじぶんにとっての現実を形成できていない状態なのである。どこが完成かはわからないけれど、その都度、必要なもの、大事と思うものを積み上げていくことでしか、次の展開はない。同じ場所で足踏みである。

 愛に関わる領域での苦闘は苦しい。しかしひとつずつ形にしていくしかない。壊れそうになりながら。


 と思うんだ最近。