細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

ドラマの不毛地帯をみたら/祖父の

不毛地帯


瀬島龍三がモデルだったかなと思い出し

瀬島龍三―参謀の昭和史 (文春文庫)

瀬島龍三―参謀の昭和史 (文春文庫)

今日これを買ってきてしまった。どうもなんとなく一回見た限りでは、篤実な人物として描かれており、??となったからだった。
もっと得体の知れない、戦中から戦後、ずっとこの国の権力のそばにいた人だと思っていたからだ。

どうも保阪正康によると、不毛地帯の主人公は複数関東軍将校を合成してできた人物のようだ。まだすべて読んでいないが、シベリア抑留のことも気になっている。どうもシベリヤ抑留において、もと大本営参謀本部にいた瀬島の扱いはソ連側にとっても重要な機密を知る人物であり、また瀬島自身も巧みな処世をしたようで、必ずしも多くの抑留者を襲った事情とはちがったようだ。つまり石原吉郎や他に亡くなった方々のような運命とは異なっていたようだ。しかし生き残るためにどうすればよかったのだと死んだ瀬島は言うだろうと思う。あとがきを読むならば、瀬島自身に辛辣な保坂の文章であるが、必ずしも瀬島自身を叩きたいわけではないと断っている。それよりもシベリア抑留自体が現在も様々に不明な部分を多数残しているし、また関東軍大本営に関しても瀬島は多くのことを知っている。だからそれを正直に語ることをしてほしいだけだといっている。歴史にたくさんの虫食いがあり、日本が国家として起こし、敗北した最大の戦争だから、その検証に瀬島も寄与できたはずだと保阪は言う。しかし瀬島は今やもういない。

もう少し読んでみようと思う。ただ、今、不毛地帯をドラマ化するならば、保阪正康の本も視野に入れなければおかしいだろうとは思う。実は知り合いの年長の方の父上も抑留者であったようなのだ。やはり再就職、社会復帰に相当葛藤を経験されたようだ。これも石原吉郎が語ることと符合する。ひととひとがつながること、あるいは共同体のあり方そのものから突き放された経験を持つ人の苦悩である。これは今金融危機以降の世界で人々が感じているものにも通じる「自明性」の「溶解」のようなものだ。あまりにもおかしな世界にいると、結局どの世界にも戻りにくくなる。そこで「参加」ということが問われているのだ。
 また石原自身もいうように、抑留を経験した人々の中に石原自身もいたわけで、それが自分だけの苦しみではないと石原は気づいていたはずだ。そういう「語らざるもの」の列の中に自分がいるということに石原自身はひどく敏感だったはずだ。自分は生き延びたということがまるで「罪」のように思えたこともあるだろう。(これはフランクルやプリーモ・レヴィら、ナチでの強制収容経験者も語ることだ。)正確に照合するなら石原自身の主観も多数混じっているはずだ。しかしそれが倫理とも、桎梏ともなり石原は生きたはずだ。

ひどい苦しみの経験や世界自体の記憶は、人を孤立に追い詰める。そこで自責や自責から逃れようとする運動にどうしても二極化してしまう。本当はそういう経験自体、存在しないほうが人の権利として正当である。しかし世界というものは自分の都合や生存を軽く吹き飛ばす力がある。だからそういう目に遭ってしまう人はでてくる。それどころか多かれ少なかれ我々はなんらかの形で「災厄」が降りかかるのをまぬかれない。

ただ、身に降りかかったことが恐ろしく耐え難いことがある。個人的に僕は人間の心はそれに対して相当動揺し、砕かれるものだと思っている。だけれども、そこにあるものやそこにある何かをそのものとして見、自分の感じたように語りながら、その経験自体を新たな意味としてつかみなおすこともまた人はできると最近感じられるようになってきている。しかし石原のように、いや石原よりもさらに発言することをためらい、苦悩を抱えて亡くなっていった人も多くいるはずだとも感じている。

・祖父の

自分の祖父はどうも開戦の日にタイで、負傷したらしい。プラチュアップキリカンという場所だそうな。これも母からの伝聞で、母も古いことだからはっきりとはといっていたが。田舎に行けばその当時の何かはあるかもしれない。
日本は真珠湾を嚆矢として、複数の場所で電撃的な奇襲に出たようだった。タイはフランス領であったが、事実上タイの国王に国境を越える打診をして許可が下りて、すぐ攻撃に入ったらしく、タイ人で構成される兵隊と戦ったのかもしれないと思う。詳しい事実は知らないが概略をそう推測している。タイへの事実上の奇襲にタイの現地住民や兵隊は驚いて、タイの兵士達が応戦して双方甚大な被害が出たようだ。タイの教科書では、タイへの日本軍の急襲に勇敢に戦ったタイ兵士の記述もあるらしい。
しかし上のような場所に祖父がいた事実はまだはっきりと確認は取れていないので、恐らくこうかなという感じである。

ここから以下は祖父や母から聞いた話で自分の人生の見方にかなり影響したように思う。祖父は、腹ばいになって塹壕で銃をかまえていたらしい。顔と胸に銃弾を受けたが小銭入れを胸に入れていたため大事にならなかったらしい。しかしショックで気絶し、タイの密林で一晩泥地につかっていたらしく、翌日来た衛生兵が、遺体と、要治療に分けるトリアージをしていたら、なんとか要治療のほうに入ったらしい。

自分は銃弾でひしゃげて溶接されたように、ぐにゃぐにゃになった小銭の塊をみせてもらったことがあり、そのときから生きると、死ぬとは紙一重だなと感じていたようだが、小さかったのでそこまでうまく言語化できていなかったようだ。

その後祖父は東京の陸軍病院?に送還され、しかし顔や顎の傷は大きいものの手足は動かせるため、傷がよくなってから近くの神宮球場で野球の練習をしたこともあるようだ。それから郷里に帰って、就職したようだ。男手が少ない時期でもあった。幼い頃は、母を早くに亡くしていたため、それが不良っぽいやんちゃな行動の原因になったようだが、戦争から帰ってかなり静かな性格になったようだ。自分は孫だったので「やさしいおじいちゃん」という印象。しかし晩年あれは大学3回生の後期の頃か、祖父はあることでめずらしく知り合いと喧嘩し、「和広、いうことはいわなあかんぞ」と何度か繰り返していたのを覚えている。亡くなったのは、それから数ヶ月後で、それが僕にとっての祖父の最後の言葉だった。祖父は何を「いわなあかん」と僕にいいたかったのか。それは自分では心の本当のところみたいな意味に受けとっているのだが。

祖父が知り合いと喧嘩し、悔しかった時、何か言い返せないことが具体的にあったのかもしれないが、僕はもっとちがう意味に受けとったようだ。自分は社会がいやで、就職が恐かった。その四回生の記憶と、祖父が亡くなった年は大震災とオウムサリンテロ事件の年でもあり、その中で自分はどう自分であるべきかという心境と、祖父のことはダブって覚えている。
おそらく祖父は僕におそれず自分を出せよといってくれたのかなというふうに感じている。祖父自身、どこかで自分がうまく出せない何かを抱えていることにずっと悩んでいたのかもしれない。そこがシンクロしたのかなとも。