細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

明治の人の社会活動

昨日大阪市立美術館福沢諭吉展を見に行った。
未来をひらく 福沢諭吉 慶應義塾 創立150年記念

蒸し暑かった。学問のススメの原版の記念スタンプがあり押して帰った。

さて内容は非常に充実していた。こないだ内村鑑三の本も読んでいたので
大いに参考になった。明治人とは何だったんだろう。

福沢はsocietyを「人間(じんかん)の交際」と訳したそうだ。
その手前で「独立自尊」をかかげ、まず自分自身の身が健やかでない状態で、国が富むことはありえないとした。これは昭和や今の日本の自分が身を粉にして社会に奉じるというありがちな考え方とはちがうのかもしれないと思った。
もちろん福沢自身は国家のために身を粉にするという思いをもっていたかもしれない。ただ一身独立して国独立すという発想には、まず儒教的な「修身治国平天下」の考えが大きく作用しているだろう。つまり自分の身の回りの世界を治められないものがなぜ国を治めるかという思想。もうひとつは西洋の自由主義思想である。つまりまず「私利」を考え、「私利」を達成するには他者と共同して事に当たることも必要であるという理路。福沢はイギリスの19世紀の思想家J・S・ミルやイギリスの経済学者の本に学び、市民社会、自由主義経済などについてけっこう学んだようだった。写本もあった。杉田玄白の写本もあった。


福澤の中には「サムライ」的な自尊の思想と、「商人的な」利己主義を突き詰めたら他者との共通利害を考えることになる、人も得することで自分も儲かるという考えが、あったのかなと思った。
慶応門下として泉鏡花永井荷風という独自路線の文学者と、商業や事業に行った人の品物が両方展示されていた。

また咸臨丸で海外に行った時「木村摂津守」という名前をローマ字にした
名刺をもっていっている。

明治新政府から「仕官」するように勧める申し出を断った手紙も残っている。
在野で仕事がしたかったようだ。
印象的だったのは35歳で発疹チフスにかかったことがあり
そのときの経験からか北里柴三郎感染症研究に助成金を出したりしている。
慶応義塾という学校をつくったことで有名だが、時事新報という新聞を出していたことは意外と知らなかった。マンガや女性向けのコラムもあった。この時事新報もそうだが幾度かの政府批判のために警察のブラックリスト入りしたり、実際に処分が出そうになったこともある。処分されなかったのは、なぜか。

勝海舟とは仲が悪かった。森有礼大久保利通に「学問のススメ」を読むように手紙で送ったとか。伊藤博文井上馨を批判する部分もある。彼自身は共和制より、イギリス風の立憲王政を望んだようだが、伊藤らはドイツ法学の影響下にあり、国家の権限を増大させていたため衝突したようだ。統帥権の総攬など、それは立憲王政というより絶対王政的な匂いがしたためであろう。
この対立はおそらく美濃部の天皇機関説が批判の的になったことへとつながる流れだと思う。

身長は170を越え当時の日本人ではすごく大男。それがちょんまげして咸臨丸で洋行しユトレヒトとかパリ・ロンドンを歩いていたのはかなり不思議な光景だったのでは?むこうではけっこう写真をとったようだった。咸臨丸に乗り込んだ人の中では一番多く自分の肖像写真を取ったようだ。



サムライのように見えて社会事業家、教育事業家、思想家、時論家など多彩な面がある。というかそれは截然と分離されてはいなくて、ほかにも様々な思想家や社会活動家がいたと考えるのが妥当ではないだろうか。