細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

ボーダーランドステイト

松岡正剛内村鑑三「代表的日本人」の書評で興味深いことを書いている。

しかし一方で、内村はサムライの精神をもって世界に対峙しつづけようとした。『代表的日本人』の「あとがき」にはこんな文章がある。「たとえ、この世の全キリスト教信徒が反対側に立ち、バール・マモンこれぞわが神と唱えようとも、神の恩恵により真のサムライの子である私は、こちら側に立ち言い張るでありましょう。いな、主なる神のみわが神なり、と」。

 これでは内村は矛盾していると言われても仕方がない。実際にも、内村にはナショナリズムグローバリズムが混じっている。混じっているだけではなく、それが交互に出て、交互に闘っている。それは明治キリスト教に共通する特質でもあるが、内村においてはそれが激しく露出した。
 ところが、内村は晩年になるにしたがって、この矛盾を葛藤のままに強靭な意志で濃縮していった。そしてついには「小国主義」を唱えるにいたったのである。これが内村の凄いところだった。愛国者・内村は日本を「小さな政府」にしたかったのだ。そして、そういう日本を「ボーダーランド・ステイト」と呼んだ。
 そう、境界国である。かくて「日本の天職は」と内村は書いた、「日本が日本を境界国としての小国にすることなのである」と。これは日本という国の天職なのである、と。
 こんな発想は、内村鑑三を除いては、なかなか生まれない。今日の日本人にもちょっとやそっとでは言えない発想である。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0250.htmlより引用

このボーダーランドステイト=境界国という響きに大きく引かれた。石橋湛山とは思想的な方向はちがう。しかし矛盾を受け止めてそれを圧縮していきるというあり方を日本のあり方として想定したことは似ている。それが両者を期せずして「小国日本」を唱えさせた力である。安易な和ではなく、戦いやせめぎあいの中で小さくとも、独立しうる国としての賢明さを目指したということだ。しかし歴史は全く逆の侵略の方向へいく。

日本はナショナルアイデンティティを求める限り常に引き裂かれる。日本だけではないどの国でもそれを求めるのは不可能なのだ。自分がどのような国に生きているかを真摯に思考するものは、その「引き裂かれ」を生きている。そこに無理やりな統合はないのだ。

論理的に考えるなら、そこには引き裂かれをいきるより他はない。
その深い葛藤の中から、共に生きる社会のあり方が模索されるべきなのだ。

多くの国が立派な「国」であろうとして、自分の起源・領土・誇りを主張する。日本もずっとその道を辿ってきた。それは(国というものの性質上)仕方ない面もあるかもしれないがただしかしそれだけでは戦争になり抑圧をかならず発生させる。他国を制圧しその国や地域の人たちの生活や心、命を壊すのだ。これは普通に考えて極めておかしなことだ。
そもそも、人が生きる場所とは、多様な人間が行きかう場所としてしかありえない。ならば、そのことをつきつめていくと、雑多な純粋ではない、あるいはなにかと何かの狭間で生きている私たちの姿に行き当たる。そのことを認めざるををえないのではないかと思う。
様々な人が行きかい住まう場所で、自分たちの共にあるあり方としてどのような社会構成が、あるいは体制が望ましいか。

憲法九条よりも、ポストモダン思想よりも先に、内村鑑三や湛山は、前者はキリスト教、後者は近代経済学を深める中で、アイデンティティの裂け目を生きるという発想をもったようなのだ。自分を矛盾そのものとし、それをひたすらに生きることだ。
それほど大それたことはできないが、それ自体穏やかで、複層的な、しかし緊張に満ちたあり方。これは規模の小さなという意味ではない。国として内に対しても外に対しても夜郎自大にならずに、自己自身のあり方をよりよくしていくことなのだ。*1

           *

昨日内村鑑三の「代表的日本人」を読んでいて、中江藤樹の章に大変打たれた。実は中江藤樹は関西が生み出した偉大な思想家の一人である。

僕は昔10年ほど前介護を初めお金ができた正月、一人旅で琵琶湖湖西の安曇川のあたりをぶらついていた。そのとき中江藤樹の記念碑のあるところに偶然至ったことがあった。あまりそういうところをめぐるのは好きではない。だから奇縁というか、面白い縁だと思う。

http://www.takashima-kanko.jp/manabu/history02.html
神社か墓所のある玉林寺の前をとおって驚いたのである。驚いたけど当時は中江藤樹の名前しか知らず、今になってやっと本で知った次第だ。

藤樹は陽明学の思想家だが、本人はナイーブで母親思い(今風にいうならマザコン?)の人だったらしい。家督をついで家長として生活していた伊予から、仕事を辞めて脱藩し近江の母の元へ帰った。ある意味はやい隠居だが、そこで彼は小さな塾を立ち上げて細々と生きる。あらたなスタートだった。その名は知れ渡り、熊沢蕃山などに影響を与える思想家となる。

ナイーブでローカルにもかかわらず、栄達の道を歩まないで、自らの心を励まし鍛える胆力におそらく内村鑑三はほれ込んでいる。

面白かった挿話。藤樹の妻は、あまり美人ではなく、息子の評判を心配した母親は別れさせようとするのである。そこで、藤樹はきっぱりと断り、この女性と共に生きると愛する母に言うのだった。

陽明学については、江戸当時、公認の学問は朱子学であった。それに対立する形で陽明学があり、体制よりも個々人の内的な良心を重んじるということのようだ。つまり当時の体制にとっては異端と見られていたようだ。しかし次に見られる資料では、丸山真男はそれほど大きな違いはないと感じていたようだ。

参考;’†]“¡Ž÷

※8月24日加筆

*1:ただしかし、同じ戦争への批判でも両者の動機は異なる。石橋湛山は合理的に考えて、得るものより失うものの多い戦争に反対する。内村鑑三の場合日清戦争を義のある戦いとしてむしろ応援した立場だったが、そこに義がないとみるや大いに落胆し、以降非戦の側に徹底して回る。しかも兵役拒否をしない厳しいものだった。彼の義とは何だったか。しかし二人とも「小国」という点では一致する。