細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

自分をつまらん枠に入れるな

 今日は某所で卓球した。下手でも何でも、楽しいからいいな。

 まだタバコはやめられている。
 身体を縛り付けたら、苦しくなる。

 昨年秋・あまりにも現場に納得が行かず、就労支援の掃除をやめた。社会福祉士試験にとにかく集中した。
 ↓
 社会福祉士試験で身体が凝った。
 ↓
 今年の春に終わってからゆっくりした。すこしずつコリが取れた。
 ↓
 5月ごろ先生が妙な民間療法をすすめるので喧嘩をして、鍼灸をやめた。
 ↓
 身体が少し楽になった。
 ↓
 8月・タバコをやめた。つうか吸う方がしんどいような気がしてきた。歯ぐきも悪くなるし。

 ↓
 まだ吸いたい気分も出てくる。今日は一時間卓球してもほとんど息切れしなかった。楽しい。

 固定観念や無理な枠に自分を入れ込んではいけない。自分が壊れてしまう。だからそれの逆に行けば、思考や感覚はまともになってくる。
もちろん、自分の性格の悪さは直らないけど。

 ただし、自分に必要なことは何でもやったほうがいいなというのは覚えておきたい。だって、今までの経過を見たら、自分ってやめてばっかりで根気がないようにも思うから。でも、元気じゃないとね、とてもじゃないけど、人生つらいばっかじゃいやだから。自分の人生ってちっぽけに見えて、そんなに簡単にコントロールできないから。自分の人生をやってくって自分みたいな弱虫じゃなくてもすげえしんどい。けど、それをやるのが一番楽しいだろうから、自分を見失ったらいやだなと思う。

 だって俺はよく自分を見失って錐もみ状態だと思うけど、でもそれはなんか空しいからな。自分にとって自分を見失って滅亡するのは簡単すぎる。だって、すぐ投げ出しちゃえばいいから。すぐ乱れることが出来る。それは自分を押しつぶす外圧に屈することだ。
 自分を無茶苦茶にしなくても卓球だけでこんなに愉快じゃないかと。

 昔仕事を辞めるずっと前から、いじめだって、親との関係だって、会社の面接だって、自分はプレッシャーにつぶされていた。世の中には筋の通ったことも理不尽なことも入り乱れているからややこしい。

 自分の中にも弁明や、様々な欲望や、卑怯さや、薄情さそういうものがある。だから自分は自分を責める。だけど、ぜんぶ責めたらきっと俺は死ぬ。全部責めるとか、そういうのも現実的ではないから、自分は生きることにしている。
 生きる・死ぬは問題にならない。それは事実であり、問題ではない。そこにあるものそのものなのだ。


 今まで死にたいとかいうこと、そういう裏面のことはずい分頭が擦り切れるまで思った。でももうそれをしても今はなにも出てこないから、ちがう方向にすこしずつ変わってっているように思う。

 だって俺はもう少し楽しくできるはずだろって思う。体力ないんだけどね。だからといってあの苛酷な福祉の現場に戻れるようには思えない。なにか自分の中で、何かが洗い流されないとなんとなくやばい。だから金はあまりないが自分を健康にする方向にだけ意を注ぐ。無理やりな元気さや、辛抱我慢という考え方に負けないために。