細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

田中小実昌/物そのもの

本日はデイケア参加。柔軟やエクササイズの日。人数がたくさん。身体を動かすのは良い。

さて先日http://d.hatena.ne.jp/ishikawa-kz/20090801の続き。

田中小実昌 (KAWADE夢ムック文藝別冊)

田中小実昌 (KAWADE夢ムック文藝別冊)

堀江敏幸のエッセイや井口時男の批評。ストリップやハードボイルドについてのコラム、書斎の説明、古本屋での小実昌本の様子などなかなか充実してきた。なんといっても田中小実昌の作品「どうでもいいこと」が入っていること。今読んでいる途中だがスゴイ。父上の田中遵聖が末期がんに侵される事態を書いている。これは今のところ端整なリアリズムであるが、時々後に展開される小実昌節の萌芽がある。ところどころ私小説的である。もう少し書き込んでいけば、藤枝静男のような感じになるが、逆に非常に飾り気の少ない文章だ。しかし、ふたりには当たり前だがすぐれた作家に共通の要素がある。それは、とにかく丁寧に何かをたどっていること。そしてその辿る足取りを示す文章はきわめて鋭利なのだ。

藤枝静男の文体は彼が医者ということもあってか明らかに客観を強くえぐるようである。えぐることで、えぐりたくないものやえぐることではうかびあがらないものへの、狂おしいまでの愛を感じる。田中小実昌の文章も、見かけは平仮名も多いものの、物そのものにつこうとする狂おしいものがある。ただ、田中小実昌は彼の流儀として、その狂おしさを見せないように、その匂いを消そうとする。その緊張が恐い感じである。

 このトンネルに列車がはいってしばらくは、神経よりも内臓を直接刺激するようなレールの音がつづいていたが、それがみょうにうつろにきこえだし、そのうち、遠い耳鳴りのようなひびきだけをそこにのこして、しんと静かになってしまった。
 妹の手紙をうけとったときから「父はガンだ」というセンテンスは、たえず、音になって、頭のなかでながれていたが、そのセンテンスのもつ意味、つまりぼく自身への関係は、ちょうど、このレールの音のようにかくされていた。(もちろん、ぼく自身によって)
 煙の形も色も見えないが、暑苦しい、鼻をつく空気がまわりをつつむ。そして、とつぜん、レールの音が表面にでると、大きくなってきた。と同時に、恐怖という名前がつきそうな感情が、不意に、ぼくの胸のなかにうまれ、加速度的に大きくなるレールの音にひっぱられるようにふくれあがっていった。
 だが、これまたとつせん、列車が、花崗岩質の白いギラギラした地上にでると同時に、ぼくの胸のなかの恐怖もなくなった。なくなってみると、どうも人工的な恐怖のような気もした。
 だが、なぜ、そんな作為をするのか?
 ―いや、なぜ、こんなものを書くんだ?
田中小実昌『どうでもいいこと』より)

 自分自身が感じたことを、丁寧に記述する。それは外界と自分の心象が重なる。(レール音、風景と恐怖の律動が重なる)それはまぎれもない恐怖の感情のようだが、それを「作為」として切断する。「人工的な恐怖」という。

 ここが恐らく勘所なのだ。こういう勘所は田中小実昌の小説の様々な場所にある。彼は「父はガンだ」ということにおののくのだ。だが、その「父はガンだ」ということを受けた彼の何かは、まったく書くことでは到達しえないもののように彼には感じられているのではないか。
 到達しえないからといって、複雑だとか不明なものなのではない。彼の中で、彼の眼前をゆがめるほどの衝撃がある。このことは疑い得ない。しかしそれを「言葉にする」ということはどういうことなのか。

 言葉にしてしまうと、それは固有性を失い有体のものになる。彼のいわば感情はおそらく人が自分の近しい人を失ったときと通ずる感情である。しかしそれを体験している彼の体験の固有性は言語化するほど、ちがってしまう。ちがってしまうが何か書かずにいわずにおれない。いうと、ちがうように感じるそういうものなのだ。

 彼が後年カントに言及することが不意にわかるように思ったが、カントをきちんと読んでいないぼくにはなんともいえない。こういう厳密な事柄について厳密に言うなら、ウィキペディアを引いてはいけないが昔買ったはずの「プロレゴメナ」が見あたらないので、メモとして引く。ご容赦いただきたい。
物自体 - Wikipedia

経験そのものを批判した際、経験の背後にあり、経験を成立させるために必要な条件として要請したものが、物自体である。

「感覚によって経験されたもの以外は、何も知ることはできない」というヒュームの主張を受けて、カントは「経験を生み出す何か」「物自体」は前提されなければならないが、そうした「物自体」は経験することができない、と考えた。物自体は認識できず、存在するにあたって、我々の主観に依存しない。因果律に従うこともない。

田中小実昌はこの小説の部分で、

「父はガンだ」というセンテンスは、たえず、音になって、頭のなかでながれていたが、そのセンテンスのもつ意味、つまりぼく自身への関係は、ちょうど、このレールの音のようにかくされていた。(もちろん、ぼく自身によって)

と書く。「父はガンだ」は言葉として「経験」される。それどころか頭の中でなんども繰り返し反復される。しかし、「父はガンだ」という言葉が「ぼく自身」に持つ意味はここでは伏せられている。書かれない。「ぼく自身によって」
 つまり、ここでは自分の意思で書かないのだった。レールの音が聞えなくなるように。これは「感覚による経験」だからだ。しかしそれは前景化してくる。レールの音が戻ってくるように。それは「恐怖」と名づけられる「感覚」である。それは段々強くなる。

 しかし「列車が、花崗岩質の白いギラギラした地上にでると同時に、ぼくの胸のなかの恐怖もなくなった。

 これは一体何なのだろうか。そこから「人工的な」恐怖という白々しさが生じてくる。「花崗岩質の白いギラギラした地上」としか名指されないものによって、つまり知覚できないよくわからない理由によって、ある段階での彼の「恐怖」は消えてしまう。

 「経験の背後にあり、経験を成立させるために必要な条件として要請したものが、物自体である。」ということに近いように思う。しかしこれだけでは証拠にならない。また深めたいところだ。

 「物自体は認識できず、存在するにあたって、我々の主観に依存しない。因果律に従うこともない。

 認識できないということは、感じたり、知ったりするその働きの外側にあるということだ。またそれは私としてものを見たり、感じたり考えたり経験することとも独立に存在する。また因果律=原因と結果の法則にも従わない。

 しかしそれは私たちが経験すること自体の根底にあってそれを支える。つまり物自体がない限りそれは経験にはならない。
 こういうと化け物みたいである。

 ところでこういうことは数多くある。ここでは田中小実昌の「父がガンだ」という体験の基底にあるものがそれだ。それは言葉にしたらおかしくなる。言葉はどうしても因果律を出られない。また知覚や感覚を書く限りそれには近づけない。だから言葉を携えながらも、彼は、自分の経験を支えるものそのものに少しでも近づきたいと願っている。

 ぼくらには、そういう思い出はないだろうか。ぼくはそれを経験の岩盤と呼んできた。岩盤とか下地とかどういう言葉でもいい。しかし自分がそれ以上いけないし、たどれないものの、そこに確かに限界線があるような。こないだ内藤朝雄の『いじめの構造』という本を読んでいたら、内藤は大変優れて「いじめの経験」を丁寧に記述する。しかし、僕も何年も何年も自分にふりかかったいじめ体験を考えてきたがそのたびに、確定した言葉で記述できるか不安だった。その不安さは、どこかで終わりがない。

 しかしこういうネガティブな経験だけではない。花をみても、なにを聞いてもそこにどこかで距離がある。しかしそれが経験を支える何かと強い力で合致する経験がある。恋をしたとき、友達と旅行に行った時、花や山がひどく身近だとか。人に殴られたときの恐ろしい恐慌だとか。事故を体験したこととか。様々ある。田中小実昌のように「父はガンだ」という言葉が頭になりひびくとき。そこで強力な引力で、「恐怖」や様々な感覚が立ち上がり引き込まれる。人間も生き物だからそれは疑い得ない。しかし、そこを越えてもっと遠くへ行きたいと人は思うときがある。

 なぜなら、強い感覚の強度だけでは生は持続できないということもある。強い薬を求めるようにもっともっととなる。そこでは生は深まるどころか磨り減る。山はのぼりつくされる。私たちは年を取る。

 生を深めるために筆を取るというのがここではひとつの方法として田中小実昌に選ばれている。(もちろんそれ以外の方法がたくさんあるだろう)そこでは「書いたり書かなかったり」できる。
 しかしそのような自由意思ではたどりつけないものをネガとしてでも浮かび上がらせたいというのが、ここでの田中小実昌の強い衝動である。その衝動が彼に「―いや、なぜ、こんなものを書くんだ?」といわせるのだ。僕はそう思う。田中小実昌はそこで打ち砕かれるように、力が抜けて茫漠としてしまうように「強迫」されているようですらある。

 もう少し読みすすめてみたい。