細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

見切りと踏み切り

 昔勤めていたある場所で上役の人と飲んだか話していたときに、「ああ上の人は否応なしに出来不出来を評価し、その都度決断していかなければシステムがまわらないから、そのプロジェクトなり、人材なりがダメだったら速めに<見切る>んだな」と感じたことがある。
 自分はなんとかバイトの子を仕切るとか、自分の持ち場を維持するという感じだなというのと、あと<見切る>ということへの自他への躊躇がある気がした。

 しかしもちろん大きくいえば先の戦争でもそうだったのだが退くに退けないとこまでいってジリ貧になるのはわかっているのに意地で戦って、原爆やら空襲やら玉砕といった事態を招いた。
 だからそういう政治的戦略的思考において、動的なプロセスの中で、ここまで来たら終わりだからその前に止めるってのは大事なんだろうな。


 もちろん人の集まる場所も戦いや、ある目的のための力の結集であるから戦略はいるんだろうな。


 しかしなんとなく人間の可能性に重きを置きすぎるのかもしれないが、なんのための<見切り>であり<見守り>であるかを考えないと人を壊してしまう。壊れかけた人が<見切り発車>で業務を遂行して大惨事になってしまうということもよくある。その方はちゃんとした人でしたから、世に覆う様々な賢いやり方に思うことなのですが

 よく思うのは<見切り>ではなく<踏み切り>なのである。語呂あわせみたいだが。見切りはそれ以上見ないから、見ない相手や事象は視野から消えてその場での価値や存在を失う。当時からいやずっと自分が「見捨てられたくない」人なのですぐこういうふうに反応してしまうのだ。ダメだなあ。でも自分のやれる限りでやるしかないんである。


 しかし物事を始めるというのは様々なパターンがあるが、日が昇るように白み始める山の端みたいな微細な高揚を捕まえようとする意志の動きを感じそれをしっかり焼き付けてそこから
徐々に助走して踏み切り板でちょうどよいスピードにのって、ある境を越えるようなものというイメージも私にはある。

 どこで終わるかに関してもソーシャルワークでもそうだけど、切ったり守ったりするだけじゃなくて、その作業や作業に関わる人の気持ちや身体的な力動を鎮めるための充分な評価の時期を置かねばならない。これを<終結期>と呼ぶ。しかし終わりであるということは死でない限り、いつも何かと何かの合間や何かが始まりつつあるそういうときでもあるのだ。

 人間には絶対安心がないのはだからよいことでもある。ちがう機会が入ってくるからである。その流動性が多すぎても少なすぎてもかなり厳しい。セックスややさしさや連帯もそうなのであって、いたずらに密度や濃度を求めそれが逓減していくか増大していくか維持されていくかというふうにしか見れないのはさびしい。

 そうではなく悲しさや絶望や現実を味読しうる時間をつくることでしか人間は成長し得ないと思う。最近。しかしこう考える僕はやはり、がきっぽいな…