細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

受難と裂け目

草磲くんが捕まって一昨日、昨日、今日と経った。

 最近僕はこれから先どうしていったらいいのだろうか。というのも言葉があてはまっている感じがしない。

 しかし今日苦しくなったり、ある人と喧嘩したりして感じたこと。

 自分自身の中に「裂け目」があるということ。あなたと親、あなたと私、先生と生徒、警察と人間、言葉と言葉、あらゆるかかわりの中に「裂け目」があるのだった。
 それは具体的な喧嘩やいさかいや対立として鮮明になることもある。しかし見えにくい、見えない「裂け目」が自分をふたつに分けてしまい、自分自身の力を失わせているのである。

 しかしまた「裂け目」とか溝がなければ、それを縫い合わせたり、橋をかけたりする理由もない。

 自分はデイケアにいて楽しい。カラオケも楽しい。でも、多くの人は無力や絶望をかかえている。そして僕もその一員である。ただ、資格をとって、周りの人が見る目が若干かわっていったようにも感じる。「石川くんは遠くない日にここからすだっていくのだろうな」そう温かく、しかしさびしそうに見ているようにも思う。しかしそれは私の中にも、何かを獲得したことで、浮き足だし次のステップに進まないといけないという希望と焦りと、弱気があるからだった。今までのようにはいられない。しかしデイケアに今すごくいてて、色んな人と今までよりも話ができるようになってきている。だから自分は複雑。俺は何も特別ではないよと叫びだしたくなったりする。

 また自分の受験仲間や友達や自分の親は苦労をしながらも長く社会の中で生きてきて、しかし自分は今まで適応を迫られる社会に対して恨みやさみしさなどの否定的な感情をもっている。不安になるとそればかりよみがえる。周りの友や仲間や家族が何か自分より特別な立派な努力を続けてきた人に見えて気後れしてしまう。
俺はあなたたちのようになれないと思ってしまう。

 だからできているように見える人に嫉妬したり過剰に反応することも心の中で起こっている。

 これらに感じる自分の様々な次元での「引き裂かれる」感じは実は誰しもが持っているものなのだとなんとなく感じつつある。

 今、草磲さんは自分の中にある「裂け目」や外部との「裂け目」と戦っているように思う。それをid:Arisanは「反省」と呼んでいる。反省とは自分のそのままの姿をまずは見つめることから始まる趣旨のことをArisanはのべている。

 僕も僕の戦いをしている。それぞれの戦いの形、「裂け目」の形はちがう。けれど、それぞれが自分が足りなかったこと、助けて欲しいことをもっている。

 Arisanは受難者と草磲くんを呼んでいる。かつて僕は受難というとイエスとか特別な人が担うと思っていた。しかし僕は草磲くんを見て、彼は私たちの裂け目をそれぞれの裂け目をある形で見るきっかけを期せずして作ったように思う。様々な現象の中にわたしたちの裂け目が映し出されていて、粉々のガラスに映っていたものが、草磲くんのことでひとつの像をむすびつつあるように感じるのを禁じえない。

 私たちは引き裂かれている、裂け目を抱えて生きている。それを今までの古びた何か(例えば日本という集合表象)で埋め合わせることはできない。それぞれが自分のありようや、自分と誰かのあいだにどんな裂け目があるか、逆にもう心が通じていないのに、誰かと何かと結びついていないか。魂はどのような姿をしているか。

 受難者という言葉に導かれて思い出すのは、受難者のひとりイエスである。イエスは言った。

カエサルのものはカエサルに返しなさい。神のものは神に

あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる

剣を取る者は、剣によって滅びる。だから剣をさやに収めなさい。

草磲さんをイエスになぞらえることは、適切ではないかもしれない。別に同じだと思っていない。ただ、それぞれがそれぞれの姿になるために、私たちは、分かたれたり、剣をしまったり、つまりその両方をしないといけない。草磲さんが酩酊状態で裸でいたことは心配でもありみっともないことである。しかし、彼は全然ちがう場所にいて、なぜかしかし自分はその姿に自分に似た「裂け目」に苦しみ心痛めるものを感じるのである。