細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

ソーシャルワークはもっと開かれている。と自分に言い聞かせてみる。―先ほどの日記への追記

http://www.shirasagi-hp.or.jp/swd/difinition.html

国際ソーシャルワーカー連盟のソーシャルワークの定義。昨日読んだのはこっちだった。さっきのエントリーは「定義」だけだった。

一見難しそうに思える。しかし社会システムの不備や溝に落ち込んだ人とともに、その社会システムと向き合い、時によっては変革を行うということだ。そこには一定の科学といおうか客観性と検証が求められる。支援の理念、方法、仕組み、手続きのあらゆる面において、自己批判と相互の検証が求められる。

今の日本の現状であまり強調されていないのは、ソーシャルワークがまさにソーシャル=社会のワーク=作動・働きを変えるためにワーク=働きかけるという点だ。ソーシャルワークのワークには、社会の「動き・働き」とそれに働きかける全ての「はたらきかけ」というふたつのワークがあるように感じる。


こう読むと立派なわりに内容がないように見える。しかし良くも悪くもこうして広い働きの意味をもたせない限り、ソーシャルワークはタコツボ的な作業に陥って、自分たちを苦しめるワーク(労働・仕組み)へ至ってしまう。

実際この定義で言えば様々な仕事が、福祉に限らずソーシャルワークになりうる。誰でもピカソならぬ。誰でもソーシャルワーカーだ。おばあちゃんのお見舞いに行く子どもにもソーシャルワークがありうる。ただ、どのように自覚的におこなうかだ。そこで制度との厄介なやり取りがはじまる。しかし子どもだって老若男女すべてが誰かの相談に乗り、解決を目指す。
ただ、ひとりひとりの人間が、自分の生活をやっていく場合、どうしても医師だけでは警察だけでは、お店だけではという部分がある。ただ、思ったのはソーシャルワークはその問題を発見した人が、それを行えるという特徴がある。ソーシャルワークはもっと開かれている。と自分に言い聞かせてみる。しかし問題が当事者だけでなかなかうまくいかないことがある。だからソーシャルワークは存在する。もちろん第三者に居直ったら終わりなのだが。ここも難しい。

逆に言えば取り止めがない。しかし常に諸行は無常である此の世の性質が現れている。頼りないようで、したたかだ。
ソーシャルワークは、専門性をつきつめる一方、その専門性を常に解体する。科学だって、なんだって、本当はダメだと思ったら出直したりするもんなんだ。ソーシャルワークの定義は取り留めないように見えて、実は専門性と専門性に疑問を提示し続ける日々との対話の連続なのだ。