細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

メモ 不随意に

少しだけ体の芯の感じが戻ってきた。

  • 言葉がわれわれを不自由にするのだろうか。否、認識を変化させられないことが、自分の身の丈に合わない文法を選択させ、それに勝手に縛られているのではないだろうか。
  • 私たちは互いに言葉を交わさないことで危機をしのごうとしている。しかしむしろそれはおそらく最悪の道に至る可能性を増大させる。では話すことがテレビのように強制されたら危機は避けうるのか。そうではない。ではどうすればいいのか。
  • 強制か自由か(例えば官僚か民間かという郵政選挙のような状況)ということに問いが局限化されるとき、われわれの不自由が最大になる。われわれが生き物としてランダムであり、うねりであり、凪であり、つまりはそれぞれの生存の冒険があるということ。それはいつでもできるはずであり、カフカが門で示したのも、実はいつでもできる、やっていることが見逃されやすいということなのだ。それをおのずから延期し、やらないこと。しかし私たちは忸怩たる思いで、あのときこうすればよかった、いや今こうしなければならないという苦しみを生きる。ただ恋愛でも人生でもそのように学習するしかない。ただそれが続けば煉獄である。キルケゴールカフカが描いたのはそのような煉獄でおおわれた曇天であり、そこにかすかに見える雲の切れ間である。
  • 不意にある地点に到達している。しかしそれに気づかない。でも、それをあらわすことはできる。もし表現や思考があるとすれば、そういう不意の地点のたくまざる何かとしかいえないかもしれない。
  • 認識を変化させることができないことと、存在が拘束されることは再帰的に起こる。ループを描いて。
  • 自分を奴隷に家畜にすることで、なんとか苦痛から逃れているのが私の(私たちの?)現状ではないのだろうか。
  • 最悪の道を選択しないという意志ではなく、必要なのは最悪の道にいたる現実条件を研究することだ。
  • ある暗黙のお行儀のいいマナーを踏み越えていくこと。それを殴りあいや本音トークに還元しないこと。場所や言語を変容させるには見せかけのラディカリズムはいらない。そんなものは邪魔にしかならない。テロをしても仕方がない。そうではなく、目に見えない法を目に見えるようにして、その意味を作り変えていくしかない。
  • 死体や瓦礫を増やしてどうなるというのか。それが公共事業だとでもいいくるめるのか。
  • イエスが安息日に自覚的に行動していたのは休日出勤ではない。24時間営業でもない。その逆である。いやその逆ですらない。アンチであったり非として表象してもしかたないな。あるとき、休むということがあるいは働くということが、そしてその線引き自体が我々にとって桎梏やくびきになったとき、みなが休もうとする時に「自覚的に」動く。
  • みなが「動け」と命令された時「止まる」自覚的に。
  • しかし多くの場合孤立した組織されない動きは精神病における過覚醒や不眠とみなされ治療対象となる。孤立して力を奪われひきこもりとして、心配の的になる。しかし、そうする必要が何もないと気づくと自覚的に「止まり」「動く」力を手に入れることができるかもしれない。
  • 自覚されえない動きというものを想定して、そこに隙間を与えていくこと。
  • 全部コントロールし、あるいは全部自由化しようとすると、実は全てが実現されるのではなく一切が破産し病院に送られてしまう
  • 今は、それらを監禁しうる力が制度の側にかろうじて残っているが、しかしそれ以外は我々の隷属や、配慮に多くを負っている。つまり、それはまだ禁じられているように見えるため、それを守っているという段階である。
  • この先どうなるかは私はまったくわからない。しかし、改革を叫ばなくとも我々の存在や身の丈を越えるあるいは合わない仕組みは棄却されざるをえないだろう。
  • そのためには我々が死体でないこと、生きている身体として分節と統合を繰り返していることに気づくしかないだろう。当たり前のようなことをいっていると笑われるかもしれないが、私たちは多く様々な身体の律動を排除しながら、立ち読みし通行し「業務」しているのだ。
  • 法とは何だろうか。それは自らを律し自由を増大させること。しかしこのような世界でそれが本当に可能なのだろうか。


※こんなことかくときっとある種の人には頭が変なやつとしか思われない。まあそうなのかもしれない。