細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

考えるための酸素

 今日は雨です。昼頃から降ってきた。日曜日はすごく寒く雪も降ったのに、ここ数日暖かい。

 ガザへの攻撃について僕はまったく無知だ。いろいろ話は聞こえるのだが何となく考えるための酸素が足りない。なのでそこのパレスチナ出身の発言者エドワード・サイードの本を読むことにした。じっさいそこにいた人の言葉にはなにかありそうだという勘。
 

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

 今のところひときわ印象的なのはアドルノについて語るところ。亡命者・故郷喪失者の知識人とはというところで。アドルノは亡命や故郷喪失の苦い面を語ったがサイードは肯定的なものもあるのではないかというのだ。
  

そのいっぽうで、亡命生活には、ある種の代償が、また、そう、特権とでもいえるものがともなうことも強調しておかねばならない。あなたが褒賞にめぐまれなくとも、また、慣習に従わない手に負えない厄介者を規則的に排除する自画自賛的で儀礼的な社会にあなたが受けいれてもらえず、白眼視されるとしても、しかしそのいっぽうで、あなたは亡命生活と周辺性からなにか肯定的なものを引き出しているのである。
 もちろん、そうしたもののひとうに、おどろかされるという喜びがある。すべてのものを絶対に当然視しないこと、ほとんどの者を周意狼狽させるか怖じ気づかせてしまう不安定な環境のなかで切り抜ける術を学ぶこと。知識人の生活は、その根底において、知識と自由にかかわっている。けれども、これは抽象的な意味でいうところの―つまり「良い生活を享受しようとするなら、良い教育を受けなければならない」といったかなり陳腐な決まり文句でいわれるような―知識や自由ではなく、実際に生きられた経験としての知識であり自由である。知識人は難破して漂着した人間に似ている。漂着者は、うちあげられた土地で暮らすのではなく、ある意味で、その土地とともに暮らす。

 これは知識人という語を、ひどい目にあっても生きようとする人、今ある状況になにかわからないが違和感を感じた人に入れ換えても普遍性を持つ。というか生きることは常に新たな危機に出会うことであるから、そこでは何か自分が準備できない中に放り込まれている。突然首になるということや、それだけでなくある日ふと今までこれでよかったと思えた日々がよそよそしく、突き放される時が来る。そうでない人もいるが大半は自分の経験の中に孤独になる瞬間をもってる。しかし逆にいえばピンチはチャンスであり、俺は何者か考えるときでもある。
 だからこの文章は瑞々しい。知識人だからといって、何もつねに責務や罪悪感からだけでなく、どうしても考えたくなってしまう事柄からだって考えてよいということなのだ。
 いや知識人だけでなく、こないだ出来た障害者権利条約を大まかに読んだのだが、そこには参加や関わりの物理的心理的敷居を限りなく低くすること(アクセスビリティ)がある。もちろんどれだけがんばっても梃子でも動かない類の敷居もある。またもちろん何事にも自助は必要だが誰かが扉を開けなければ誰も入れず、そのなかや外で人は死んでいくわけである。これも危機である。

 まず自分を取り巻く様々な状況に、その時々の人生における、世の中における限界・制限はある。だからこそ、各々がいろんなことを考え試行錯誤できることがお互いの間で認められていないと、すぐに私たちの自由は減ってしまう。おそらく私よりは何倍も苛酷な状況で発言したサイードも、苛酷だからこそしっかりとつかんでおかなければならない気風や自由を知っていたように思えた。もちろんサイードも厳しい人なのだが、苦しさで圧してくるのではなく、それなら俺も参加できるなという感じを持っていたから人気があったんだろうと思った。しかし即時的に自分に何ができるか、そういう端緒すら私にあるのか腑に落ちない。臆病なのかもしれないけれど、自分の場所からものをいい、その場所を踏みしめる痛みと自覚なしに様々な言説に振り回されるのはサイードの流儀に照らし合わせてもまずいのではないだろうか。

たとえばレヴィナスは自分自身というのは身代わりとして存在するという。これはある意味で患者のためにがんばる医師や誰かのために命を差し出そうとするある人を思わせる。小泉義之氏は『病の哲学』の中で、レヴィナスの身代わりとは臓器を誰かに差し出すつまり臓器提供のドナーだという。

いまガザで命を傷つけられ失う様々な人がいる。それに対して身代わりになること。それはどういうことなのだろう。人のために自分の身を捧げるということ。それは一体どういうことだろう。

レヴィナスパレスチナに対してどう考えているか私は全く知らないが、レヴィナスが身代わりとしての自分という形で言おうとしたことはかつてからある誰かのために自分を犠牲にするという話形と同じなのだろうか。そこに「ために」とかそういうまどろっこしいものや、犠牲にするというときのヒロイックな感じなんて実はないんじゃないのか。営みとして傷つき苦しむある者のことを、あるいはどうしても気になるあの子のことに不意にとりつかれ、どうしようもなくそっちの方向に行ってしまうような感覚。あるいはそういう形で自己が壊されたり、何かを識ることでしか関わりをもつ主体は始まらないといっているのではないか。いかにも熱病のような浮かれに見えかねないが、しかし浮かれとは異なりそこで自分という物そのものが深く迷い、端的に賭けられているような。

使命とか志という風に常に何かに回収されてしまうこととは別の方向に自分の思いの熱量を保持すること。こう考えると、ふつうに真摯さとか自覚とかそういうものが大事に思えてきて、私はこの件に関して恥ずかしながらそういうものを持ちえていない自分を感じるのである。

レヴィナスの哲学について不明なところが多いのに思い切っていろいろいってしまった。しかしレヴィナスの哲学は何事かを始めるためのパトス(情熱・受苦)の在り処を苦心していおうとはしているように思えてならない。おそらくはナチス全体主義によるジェノサイドへの反措定あるいは批判としての方向を彼の哲学は持っていただろう。だから恐らくレヴィナスの哲学が民族虐殺あるいはホロコーストの影を濃厚に背負っているのは間違いない。イスラエルの建国もまた、迫害されたものの復権という要素がその始まりにはあったのかもしれない。伝聞で申し訳ないが調べたところイスラエルの建国にレヴィナスは積極的だったのかもしれない。おそらく実際できた国家がレヴィナスの志とちがっていても。ここにはハイデガーがナチに加担したということと同じ事情を見ようとする人もいる。現にイスラエルはガザをパレスチナをどんどん攻撃している。

しかしである。パトスの原義に帰ってみよう。それは苦しみを受けるということであり、受動でありそこから湧いてくる感情である。苦難が動因となって我こそはそれに負けずがんばるという気持ちの動き。これは確かに尊い。しかし誰が苦しみを受けたのか。そこまで考えてみる。ハイデガーのみたドイツは第一次大戦で列強に挑み敗北し屈辱的な賠償にあえいでいたドイツである。その苦しみの矛先がいくつかの変遷を経て戦いやユダヤ人虐殺へと向ってしまう。今またイスラエルレヴィナスが描いたものとは異なるとはいえ、ホロコーストや幾多の苦難を梃子に建国した時に、様々な現地住民への迫害を行ったし今も行っている。こう考えると、単にハイデガーレヴィナスを同列に並べその間違いを糾弾するだけではすまない。

理不尽な苦しみを受けたものが他を傷つけ、あまつさえ否定する殺戮するということとはちがう内在的ロジックが見いだされる必要がある。もし傷ついたものがその苦しみを他にも負わせてしまうなら、そのパトスとは一体何なのか。おそらくレヴィナスの文章が難解なのは、そこに葛藤があるからである。だからその葛藤を丁寧に読み解くことが、イスラエルの暴力の論理構造を幾ばくか明らかにすることかもしれない。そしてこれはわたしたちのような日本人とは無縁ではない気がしてきた。つまり徹底的な敗北や苦しみの果てに私たち日本人は如何なる平和や暴力の論理を持っているかということである。いささか辛気臭い作業ではあるが、苦難から報いではなく端的な回復をどう求めるか。レヴィナスは『存在の彼方へ』の最後で呼吸と云っている。それは苦しみから立ち上がり息を吹き返すことなのではないか。誰かを押しのけて立ち上がるのではなく、静かに晴朗に立ち上がるということ。新鮮な空気の元で息をすること。閉塞する日本にもみなが健やかな呼吸をする場所や考え方が必要である。そしてそれを探る材料は海外のみならず日本の思考者・発言者にもあるだろう。
サイードが「肯定的なもの」を苦しみの中にも探るように、いやはや大げさな話になってちょっと疲れました。

 最近坪内祐三の「考える人」も読んでいる。面白い。昔天声人語を書いていた深代惇朗さんの本を読みたくなった。田中小実昌森有正神谷美恵子武田百合子唐木順三…もう渋すぎていい。どの文章も素敵な雰囲気があって、久しぶりに文章っていいなおれやはり文章が好きだなって思った。
ほんとにほんとに小実さんの文章を読んだ時脳が潤った!

考える人 (新潮文庫)

考える人 (新潮文庫)

 

 

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