細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

いつもの道・ちがう道―スカイクロラを見たよ

スカイクロラを観る。梅田ブルク7にて。


 (以下ネタバレ部分があるので注意)

 自分にひきつけてしか感想がいえない性質なのだと断っておく。その上で言うと自分に引きつけると自分の弱点や至らないところをいろいろ感じずにはおれなかった。

 劇中、こんなような台詞があった。

 「ふだん見える道が今日は変わってみえる。それで、いけないのだろうか」


 そういうふうに、函南くんは自問するのだった。

 この映画に出てくるパイロットたちは、何か根本的に自分の人生というと臭いけど、そういうものを変えたいと願っている。けれど、どうしたら、どうなったら、自分が変われるのかわからなくて、息を詰まらせている。俺にはそういうふうに思えた。

 たとえば函南くんの台詞は、それを象徴していると思う。少しずつ何かがちがってみえる、そういうふうに小さく毎日のちがいを感じるということが「生」であって何がいけないのか。
 でも、函南くんは、子どものまま不死であるという設定がなくても、例えば俺のように有限で、どんどんおっさんになっていても、そう問うことはできる。
 
 どうしてかって?俺がそうだから。毎日少しずつ違いを積み重ね、俺は例えば5年前とはかなり別人だ。しかし、なんだか奥底ではどうしようもなくずーっとアホみたいに変わらない同じ俺なのだ。(自己同一性?)

 先日悪夢の件を書いた。しかし、あれは悪夢ではない。実際ああやって自尊心をなぐさめる程度には自分を慰安する部分があるのだ。そうやって自意識を守っている。
 不死(自殺・あるいは他殺でしか死ねない。自然死?はありえない)であり、子どもであることをかえられない彼らは、命がけで自分を問いながら、根底的には何となくそれに違和をもったまま、自爆的な戦闘で死んでいく。

 見事に散ったら美しいということもない。それぐらいは醒めている。

 俺は、そういう命がけもないから、なーんもえらそうにいえないし、命がけにやるってなんだよとも思っている。そういう半端なひとだ。だからうまくはいえんけど、函南くんが草薙さんにいったみたいに「生きろ。なにかが変わったとは思えるまで」というのはいい台詞だと思った。
けれど、草薙さんつまり愛する人に言うだけでなく、自分にもそういってあげられなかったかと思うのだ。例えば自分も生きていることをその不確かさのまま、ぼんやりと感じているならよかったのになと思う。派手なことは起こらないとしても、何もないとかいつもと同じということとは微妙にずれていくように思うのだ。潔さや決断の刃先が鈍っていくこと。それは否定的なことばかりではない。けれど、彼らは軍人に戦いに殉じることを見いだしているようにどうしても感じられる。それは何も変なことではない。みしまが「憂国」で書いているのはおそらくそのようなテーマである。自らが虚在であり、大儀というイデアこそが真実在だという感覚の筋道がある。その大儀と虚在としての自己を媒介するのが愛であり、愛が実現すると男は死んでしまうというように。女は見届けるというように。基本的な構造はみしまに似ている。
 しかし、たとえ自分が嘘や虚のようであったとしても、そこからしか他は見えないように思う。自分が虚であることも、嘘である可能性を考えてみる。あるいは自分が実在と感じるのも虚構や言語の見せる幻なのかもしれぬ。どちらも幻の可能性が考えうる。だとすれば、生きているということは意味では感じ考えることができない。意味というからには思考や言語を前提としているから。
 では生きるということは直ちに行いであり、言語を絶したことなのだろうか。そうかもしれない。しかしだから肉体であり命がけが前面化するということにもならないだろう。そこには出来うる限り事実に即して生きようとすれば見過ごせない飛躍があるからだ。投げやりに思うなら別なのだが。あるいはこれは厳密に論理的に思考するということともちがう。今のところ、この世に生きてて思うことは美しい死とはちがう別の何かが実際に稼動し機能しつづける妥当のようにかんじられるからだ。生きよですらない。そのように云うこともあるが、生きる死ぬの決断という以前しか居場所がない。自分の不確かさを抱きしめることが責任であり自由だと思うのである。

 いや、そんな自分も他人も救うなんて虫のいい方法をいう俺が甘いのかもしれない。さらにいうと、俺は他人をいかしめる何かを与えたなんてこともないし。また、自分を甘えさせる知恵はちゃっかりもっている。そして不確かさの擁護なんぞいう俺は曖昧なだけかもしれないのだ。

 けれど、そういうことではあっても、俺は生き残る草薙さんも、そうではない函南くんも、なんか残念に思えてならない。ぼんやりした世界に生きているようでそれは彼らがなにかをはっきりさせたいからぼんやりに見えるのかもしれない。そのぼんやりは、彼らから見て妥協であり不誠実であるのかもしれない。そのぼんやりの全面的棄却・排除はやはり困るのだ。彼らがいる基地に飛行機を見に「見学者」がくる。脳天気に写真を撮っている。しかし、実際にあのようなパイロットがいてニコニコ写真を取る人もいるだろう。けれど、どうなんだろう。もっと様々な思いをもって人はそこを訪れるだろうし、訪れない人はどうしているのだろう。

基地に来ない人、墜落現場に来ない人、基地の近くにすまない人がどう生きているのか。この映画が仮説を多く持って存在しているのはわかるのだが、「それ以外」はどうなっているのかが気になった。どんなに荒唐無稽で閉鎖されている世界を描いていても、真剣さ・潔癖さの向こう側がどうなっているのだろうか悩んでしまう。すべてが回帰し続けるなら、道がちがってみえるということにどう感動がくっつくのか。醒めているから感動はないのか。不死だから感動しないのか。しかし、不死だとしたら、不死なりの呻きや何かがある気がする。アパシーとか苦悩とかそういうものだけではなく。不死ではないからアパシーになるのだと思う。そして、そのアパシーのもとにある生命が彼らを狂わせて死に向かわせるはずなのだ。その死というものもほぼメタファだから。死はやはり意味の圏内に近いのだ。意味と無意味以外のものを死は含んでいて俺の実感だとだから死んでもしに切れないなと思うのだ。

 だけど、いい映画です。この映画の空気を俺が全部を共有していないだけだ。部分的に俺に合わせた理解をしているのだ。すまない。

 きっとこれを作った人は、自分今のままでいいのか?なんも恐がったままで、人生楽しくないだろうっていいたいんだと思う。これだけなら、単なるおっさんの説教だけど、戦争での自爆的な戦いを思わせたり、戦争もまたある種の戯れだと提示する部分もあり、またどんどん寿命が伸びてきた私たちの鈍い慢性的な痛みを示唆したり。
 しかし、俺がジジイになったら、日本も食うものがなくなっていて、すぐ死んでいたりするのかもしれないなと思う。身も蓋もなく。

 だから、情けなくても、無常であっても、いつもの道がちがってみえるだけでなく、たまには違う道を歩ければ。
 だって、どんだけいい加減でも、ひとには誰でも常道がある。ついつい同じように何かをなぞりそのことが義務となる。そらそうだ、けっこうひとは真面目に自分を維持しようとするのだ。しかし、それが楽しいのか、息苦しいだけなのか、最近よく考える。

 他の道や道のないところを歩くと、楽しいかもしれない。けれど、ただだらしなく道を逸れていくのでは、今までの人生がバカみたいではないか。そういう意地も持っているから、自分が行っていない道のことを思うことが楽しいのだ。そして、ちがう道を行く時には、ずるずるいくのではなくきっぱり自分で決めたいのだ。
 自己決定という言葉は苦手だが、それでもそれは、俺に与えられた贅沢であり、責任でもあるのかなあと。

 
 受験勉強に身が入らず、他のことばかり考えているという現状をいっているだけのような気も…(御免)