細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

あの手この手の挑発

おととい映画「ダークナイト」を見ましたよ。バットマンシリーズ知らない私でもついていけました。おおまかにいうと、ヒーローって何なの?ヒーローがいるから悪役も現れ、世界は混乱するので、ヒーローこそが暴力を占有している可能性もあるんじゃないのというような。
 ジョーカーがあの手この手で、そういう不安にバットマンを陥れていくさまが、とにかく感心しました。ジョーカーの理由なきバットマンへの「挑発」は、すごく計画的でしばらくジョーカーの口真似をやりたくなったよ。

 挑発するってことは、バットマンに思い知らせてやりたい、問いかけてやりたいことがいっぱいジョーカーの気持ちにある。バットマンもジョーカーに教えてやりたいことがある。けれど、それを伝えるためのやり方の中にジョーカーの快楽がある気がしました。

 ある位置から見るとバットマンは何の法的正当性ももたないながら、資金と技術と人気と暴力を独占していて、ジョーカーはそのような正当性のないシステムにゆさぶりをかけます。
 バットマンに正当性があるとすれば、それは十戒みたいな宗教的な倫理的な「掟」かなと。ジョーカーはその戒めの埒外にいるから、面白いというかひどい作戦をおもいつきます。竹熊健太郎氏は「たけくまメモ」の中で、アメリカの911事件と対イラク戦争を想起していました。そうかなと思います。
 ただ、暴力を占有する、あるいは、いい暴力とわるい暴力という形で一応の秩序が出来ているとすれば、しかし、何をもって暴力がいいわるいといえるのか、そもそもいいわるいなんて誰が決めるんだという疑問が描かれています。ジョーカーは非道でありながらユニークな作戦で、暴力そのものの不気味さを戯画化している。
 暴力は社会や人と人との相互信頼や紐帯を守るために、ある倫理の元では致し方ないとするバットマンの普通さが、本当にそれでいいんだろうかと思えて危険な魅力満載です。

司法や警察だけでなく、どんな人もそのような問いを生きる中で手放せない。もちろん国家は巨大な暴力を最近では事故米みたいな形でも分泌します。けれど、そのような独占はしていなくても、様々な形の暴力がある。ジョーカーにとってバットマンは変だし、バットマンにとってジョーカーはいやがらせするいじめっ子みたいな。そういうのっぴきならない関係は、どんなとこでも発生しますから。

 別に以上みたいなことを考えて映画を見たのではないけど、つくるのがうまいっていうのは、面白さの中に考える要素が入ってることなんだなあと。