細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

【2021年頭所感】コロナ禍と原発事故において、自然災害のせいにし自らの対策責任をぼやかし、「一時的なものですぐ復興する」と過小評価し、場当たり対応ばかりで長期的な対策システムを作らず矢面から逃げ回る政府と産業界の、著しい既視感について

 

人間の命や暮らしを脅かすのは、地球上の人間社会の歪んだ仕組みである。

自らの仲間に私たちは首を締められ、共犯となったり、反発したりを繰り返している。脱出不能に見えるこの仕組みから一挙にのがれ得ないとしても、そのラフスケッチくらいは粗くても描きたい。

コロナ禍は、原発事故とちがう憂うつさが覆っている。私は閉塞を感じ、苛立ち無力感やけだるさにさいなまれてきた。

私は精神障害者で、絶望や興奮と焦りを繰り返していて、このような事態にも反応が激しい。

原発事故の時に「行動化」した私は、コロナ禍では、ウィルスの恐怖にさいなまれ、もともと少ない外出頻度はさらに下がった。

ウィルスということが前面に出るため、原発事故のように政府や電力会社のようなものを加害者と見なすのは難しいように見える。

しかし、そのようにウィルスという自然界のせいなんだからといって、支配層の責任をぼやかしてしまったら、支配層は責任から逃れ、自然や人民からの収奪と搾取を止めないのではないか。

彼らは自然破壊と豊かさを両手に持ち、豊かさを選べば破壊を、破壊を止めるためには富が得られなくなるという形でシステム的な脅迫をかけている。

このようなやり方で、相対的に貧しい人々、日々の暮らしにさえ困る人々に環境に負荷をかけない生活を選ぶ権利を奪って、システムのなかにからめとっていく。私は精神障害があり、気力体力に乏しいからそのように強いられていることを実感する。だから私の話は「意識の高い人々」「意欲的な人々」の話とは少しちがい、システムの下層にいる人の位置から述べるものとなる。

ウィルスに話を戻そう。 

ウィルスを過小評価をしたり、感染拡大し死者が多発する局面で「共存」といってしまうのは、まずいのである。

むしろウィルスそのものの問題とは別次元で人間が地球上にはりめぐらした危険な政治・経済システムがウィルスの脅威をさらに倍加させ、私たちを無力感につきおとしているのではないか。

その際ウィルスの危険を否認したり過小評価してはいけないだろう。

私たちにはもはや先がなく、命が奪われていき、他人の命へのおもいやりを失っていくだろう。

それでは到底、私たち人間が地球環境とうまくやっていく方法を見いだせないというコロナ禍や環境問題の根源を改善することはできない。

放射性物質や環境問題すべてにいえるようにそれがもたらすリスクを無視するなら、私たちは危機に目を閉ざすことになりかねない。

どんな最悪の事態が訪れるか、いま何がわかっていないかを認識して対応せず、危険に目を閉ざしては、破局をまねきよせてしまいかねない。

もちろん人間がコロナ禍、原発事故、地球環境危機にうまく対応できるかはわからない。対応ははかばかしくなく、また破綻するかもしれない。

まずは辛いけど見なければなるまい。

私は一人の精神障がい者で、ストレスに弱く、この間もしょっちゅうへばって、苦しくて非力であるけれども。何かをする気力体力も乏しいけれども。

 

閑話休題


コロナウィルスが現れたのも歪んだ政治経済が自然と人間の暮らしを脅かし続けた果てに、いま私たちがあるからではないだろうか。
それは、グローバルな爆発的な生産力を生み出し、「発展」と呼ばれる現象を生み出す他方、厄介な汚染物質、紛争、腐敗した政治・経済機構を生み出し、それが解体再編成を繰り返しながら、多くの人の生活や環境を破壊してきたものでもある。

生活と環境は不可分で、同一領域に跨がるからには、他方の支配的な論理と手段は必ず影響を与えずにはおかない。
海も山も森も川も空もすべて人間の排出物や開発行為の影響を受けざるを得ない。核実験や原発事故もあらゆる領域に放射性物質をばらまく以上、ボーダーのない災害の顕著な例だ。

その中で新型コロナウイルスは人間が作ったウィルスではないが、人間の生態系への加害を間接的に証しているとはいえないだろうか。
人間による生態系への様々な侵襲が他の動物と生まれていた距離や緊張関係をくつがえし、様々な汚染物質が内部から動物の体を脅かし、また人間の免疫システムを撹乱しているのではないか。

新型コロナウィルスは、私たちを危険に追い込んだ一因ではあるが、新型コロナウィルスの威力を高めた究極的な原因は、環境を攻撃し搾取し続け、日々労働と環境を悪化させる産業なのである。
人間の政治・経済が命を基盤とする生態系と物質循環に危険なやり方で介入しすぎ、人間と環境の防御系を破壊して、様々な自然災害の激甚化を生み出しているとすらいえる。
ゆえに地球環境対策と脱原発と命を大切にする社会は綺麗事ではなく、必要なのだろう。

日常のいじめやパワハラと、ネットの、陰湿で過剰な攻撃、感染者に対する誹謗中傷、いずれもそのようなシステムと同じく、「システムの運行を止めないために弱い者を叩く」の力の現れである。

そのような命に対して冷酷な、利益を最大化させ、コストを最小にするためには、賃金と命を削り、自然界を汚染物質を薄めてばらまくことをいとわない巨大な企業群と政治の世界がやり方をあらためないからである。

新型コロナウイルスに対する対策は当然やらねばならないことであって、それを敵視させるということも、産業界にとり、都合がよい。
これをわからない人が多く、18世紀や19世紀の古典的自由主義を振りかざし、トランプのような感染対策に対する、他人との共存をかえりみない攻撃と感染症の否認に転じてしまう。
これで、犠牲になるのは、高齢者や持病のある人であり、結局優生思想になってしまう。

対策を場当たり的にし、混乱し、感染による犠牲者が増える間に、一発逆転の解決法への待望や、疫病を否認し無視する人まであらわれ、ますます経済社会が壊れ、人心は荒廃し、犠牲者が増え、ライバルが没落し、さらに競争に有利になりたいものが他を押し退けること、シェアを独占する仕組みとなることを経済システムの勝者は求めているのだ。

よく考えてみれば、これは原子力産業体が、事故を利用して、放射性物質規制緩和を推し進めた経過と似ている。
彼らは、原発事故を自分たちの企業対策の不備、違反ではなく、自然災害のせいにして、免れようとする。
驚くべきことに、彼らは予測していた巨大津波に対する対策を、コストなどの理由で怠ったのだから、災害のせいではなく、彼ら自身の責任だが、東京電力は、自らを「不幸な災害の被害者」に設定し、政府からの資金的法的な庇護を受けることに成功した。

こうなると東電は、放射能を放出した失敗を問われることなく、汚染に対する「風評被害を賠償」するという欺瞞が許されてしまうから、さらなる環境への汚染物質の廃棄を国に許されてしまう。

(福島第一原発汚染水の海洋放出計画、汚染土の再利用計画はその危険な証左)

いま、国が対策し人々を守るのではなく、国は「不慮のコロナに襲われただけなのだから、すぐに戻れるし、その間はとりあえずの対策を施してやっている。すべては自己責任、気のもちよう」とふんぞり返っているように見える。西村大臣や安倍、菅総理の対応は「お恵みを与えてやる」と言わんばかりで、この事態から人々の命と暮らしを救うという気概は感じられない。
単なる印象ではない。
「ワクチンが出来ればなんとかなる」「すぐに終息する」という場当たり的な見通しによらなければ、2021年始に、ヨーロッパやアメリカより少ない患者数で、たやすく医療崩壊の危機に陥るような状況を政府は座して待つはずがないだろう。(さらに検査規模が経済大国としてはまだまだ小さいことから、感染者の見過ごしによる多発が起きて医療機関の院内感染や市中感染が起きていることも考えられる)

また、補償制度、定額給付制度などもいい加減、安定的に行える整備が必要だが、いつまでも、「休業要請に対する協力金」という形式になっている。罰則とかではなくそれ以前に、政府や自治体が休んでというのだから、実施した組織や個人にはその間の損失に対する対価が必要なのに、シンプルな仕組みを組まず協力金でごまかしている。
これも、原発事故の賠償問題と似た部分がある。
避難者、被害者の恒久的な支援制度である子ども被災者支援法を政府は無視し、一時的な支援は早々に打ち切られ、賠償は打ち切られたり、国や東電の抵抗で裁判は長期化している。
コロナなどの長期的なパンデミックに対応できる社会インフラの整備(換気設備や労働衛生活安全の仕組みの更新)もしようとしない。
いずれにしても、コロナ禍も原発事故も長期化し、さらに激甚な地球災害が起き複合災害が起きる懸念は高いのに、予防策や被災者の総合的長期的な支援制度が作られない。
国境を超えた地球災害の前にアジア地域との連帯が日本ナショナリズムに阻まれてできない。
日本政府が「コロナ禍は一時的ですぐ復興できる」というまるで原発事故同様の姿勢か、もっと悪く解釈するなら、「コロナは自然なんだから、政府には対策責任はない」というこれまたすべてを津波が悪いといっている原発事故の国、東電の態度や、日本の侵略戦争の敗因を「神風が吹かなかったから」「国民が必死に戦わなかったから」と呼ばわるような旧体制マインドである。
つまり人権がないと彼らは見なしているようにみえる。
恐らくそれはずっと前からなのだ。

そんな態度が根幹にあれば、感染症法や特措法の実施(もちろんそれらの法にも様々な問題はあるわけだが)にもかかわらず、それらの運用は形骸化し、本気度のないメッセージは、感染症対策や補償を空洞化させてしまう。
コロナによる貧困も、お偉方が責任転嫁と事態の矮小化を続けるからこそ、悪化の一途となるだろう。

すべてのシステマティックな過失の責任を、自然界と人々の努力に押し付けて、産業界と政府が逃げ切ろうとするこの構造は原発事故でもコロナ禍でも変わらない。

そのことに気づいていただけない論調にも、違和感しかない。

これではこれまで産業界と政府の過失により犠牲になったおびただしい人々や自然は浮かばれまい。

新型コロナウイルスは謎が多く、いまだ終息への道筋が見えないということはいえる。
それも、放射能汚染と同じであり、時間の中で、私たちが有害性を研究し、その害を低めて命を守っていくしかないというのも似ている。

いまだ死者が出続けていて、コロナウィルスの仕組みがわからないという中で「共存」と言い出すのも理解できない。
ウィルス自体がいまだ人間との関係が落ち着かないから毒性を発揮して、風邪やインフルエンザよりはるかに高い死亡率を出してしまっている。
私たちは、このウィルスへの免疫をどう構築できるのか不明な点が多すぎる。
その時点で「共存」できていないわけで、人間の側からそんなことを言える状況なのだろうか。

また見通しのない中で財源は無限ではないということもあるのかもしれないが、かといって、対策予算を無関係な使途やgo toに使い続けたり、日米安保費用に使うのは理解できない。

産業界と政府のその場しのぎや責任のがれを免責するのはおかしいと思う。
それらの仕組みを改善しなくて、どうして新たな自然と人間の関係ができるというのか。