細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

「検査も病床も医療も予防接種も補償も手薄なまま、オリパラ開催中の感染爆発を耐えさせられる」現実と、「コロナは大したことないから科学的対策なしで自己治癒力や精神力で頑張ろう」という類いの論調の関係について

 

現在進行形で起きているコロナ禍の惨劇に対する日本政府の対応は、日本が戦前、戦後に行ってきた天皇制的なマイノリティーの排除と似たメカニズムをもつ。

オリパラ開催を感染症対策や補償より優先するという恐るべき事態は日本の近現代史における国策的惨劇の反復に見える。

国民的高揚や感動のために、人々の命や生活が引き換えにされているともいえる。
それは戦後において例えば戦争責任を根幹では否認した経済発展となり、経済侵略や公害や差別や原発の推進となり、被害者の切り捨てとなる。
感染者と経済被害者への支援を手薄くし、東京オリパラをするというものも本当によく似ている。国家や経済の見かけの発展のために、人々の苦しみは片隅に押し退けられるのである。
これは植民地侵略して、命や財を奪い、これを開発や戦争に当てたという侵略体制の経済システムと同じく、人権や生命の擁護への反逆である。

経済や国家の繁栄のために、人権や命を奪うというのは、まさに近代の負の側面の繰り返しである。

ところがコロナ禍がもたらすこの危機を否認する思想がある。
コロナ禍を精神論、自己責任、その人の治癒力だけで乗り越え可能とする思想であるが、それはこの感染症対策よりオリパラという暴力性の受け身的反映ではないか。
なぜなら、実際にコロナ禍を国からは自己責任で、即ち自宅で寝て、補償なしに耐えろ、オリンピックの感動という精神論で耐えろといわれているからである。

それは、検査も病床も医療も予防接種も補償も手薄な状況に耐えるということになる。

 

即ち自然治癒力と「心がけ」で「あきらめてコロナとノーガード共存しろ」という話になるだろう。それは例えば、コロナは平気論というものと酷似してくる。
コロナ禍でオリパラを敢行するような類いの国策と恐ろしく同期している考え方なのである。

だから、私は「真実に目覚める」のではなく、人権や生命の擁護と、起きている現象の客観的な分析が必要だといっているのだ。

コロナ禍も原発事故も気象災害(猛暑など)も「大丈夫耐えられる」という五輪の根性我慢精神とそれを支える差別的な大会関係者という図式はこの世界、日本の地獄ぶりを完璧に表している。中止を!

コロナ禍も原発事故も気象災害(猛暑等)も「大丈夫耐えられる」という五輪の根性我慢精神とそれを支える差別的な大会関係者という図式はこの世界、日本の地獄ぶりを完璧に表している。中止を!

コロナ禍も放射能の時と同じで、政府はなるべく負担と責任を負わずに状況から逃げ回って、自然と人間の命を大切にする体制への移行をさまたげている。ー兆候としてのコロナや放射能や気候変動の過小評価が政治家などから語られること

 

Rockn' Roll

Rockn' Roll

 

放射能の「風評被害」という言葉は結局、東電や国が十分な補償をするのではなく、「被災地の商品を買い支えよ」と全国の消費者の負担にすり替えたものだった。
でなければ、あれだけ閣僚が恫喝気味に「応援せよ」といったり、東電や政府は、被害者が事故の責任と補償を求める裁判で対抗措置を取るはずがない。

政治家やある種の御用学者などが垂れ流すコロナの過小評価も、放射能の過小評価も、よく似ているなと思う。

それは被害が起きたときに、国や自治体が責任を取り、被害の補償や支援を行わないための「空気を作る」ために活用されているということだ。

 

 

コロナの場合。

一部政治家や一部専門家やネットで出回るコロナの過小評価に加わった市民は、コロナ禍で様々な苦しい事情があったのかもしれないが、残念ながら科学的にだけでなく、医療崩壊が世界中で起きたことからわかるが、コロナは脅威である。それは、特に高齢者や持病のある人やマイノリティーを襲う。社会的に不利な立場、脆弱な健康状態にある人々から命を奪われる。ウィルスの感染源は、人間同士の接触や同一空間の共有であり、ビジネスと文化、コミュニケーションの根幹を襲う。
感染対策が気詰まりになりがちであるのは事実であるし、経済や社会活動は打撃を受ける。みんなが感染被害や経済被害や活動困難でなにがしか被害を受けている。(私は精神障がい者だが極めて調子悪くなった)
しかし、感染被害と経済被害は、ひとつのコインの両面だ。
それは「心配」を責めても仕方ない。
パンデミックで、自分や他人の命が心配にならない人はいない。感染とは、自他の接触で起きるから、防ぐには何らかの防御をしなければならないが、それは、「自他」両方のことを心配することでもあるのだ。

(だからといって、様々な障がいなどがあり、マスクをするのが難しい方などを批判しているわけではない)
コロナウィルスを生み出すきっかけとなったこの人間文明の環境破壊の抑止とコロナ被害への十分な対策と補償をしないで、オリンピックに奔走する政府やIOCが悪いのである。

コロナの場合どうなったかといえば、トランプや麻生太郎といった資本主義国家エリートが、公然とコロナを軽視する発言をした。
コロナ対策だけでなく、補償を骨抜きにし、人々が勝手にリスクを無視してくれればということを意図した邪悪な発言だと私は感じた。後日談だが、トランプは、コロナ感染したとき、最新の高度な治療を受け、ワクチン反対派の支持を受ける一方、ワクチンを接種していた。

支持者や市民に新型コロナウイルスのリスクを軽視するよう語りながら、本当は新型コロナウイルスのリスクの大きさを認識していたとしか考えられない。 

しかし、表面的なリスク軽視と深層でのリスク重視の間に、整合的な理路や説明がない。

これでも支持がなかなか衰えないのは、不可解さを感じてしまう。

 

トランプ氏、ワクチン打っていた 退任前に夫人と、公表せず―米:時事ドットコム https://www.jiji.com/jc/article?k=2021030200767&g=int @jijicomから

トランプ氏のコロナ治療、一般患者との違いは? https://www.cnn.co.jp/usa/35160521.html @cnn_co_jpから

一国のリーダーに特別な措置を適用したり、可能な限り高度な治療を受けさせるのは当然のことかもしれない。しかし、今回トランプ氏が受けている治療の一部は、一般国民にはそもそも提供すらされていないものだ。

トランプ氏が大勢の支持者に向かって「コロナを恐れるな」と訴えたとき、こうした事実は見落とされていたのではないだろうか。

トランプ前大統領の治療後やっと申請が行われ、当局は許可した抗体カクテル治療薬

新型コロナ: 米FDA、トランプ氏に投与のコロナ抗体薬を緊急承認: 日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66533980S0A121C2000000

 

緊急承認を受けたのは、2種類のモノクローナル抗体を組み合わせた抗体カクテル治療薬「REGN-COV2」。トランプ米大統領がコロナ感染した時に投与を受けたことで知られる。

日本ではつい先日申請がなされたばかり。

トランプ前米大統領に投与された抗体医薬品を国内承認申請 中外製薬
7/2(金) 10:57配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/4f3f1fefaa6a90519269fc95bd53174b0f260a28

 

政府や自治体は、要請への「協力金」と言い、絶対に「補償」とは言わないようにした。
「要請」は「法的拘束力を伴わないから」といいながら、結局は、自分たちが営業損害や感染による損害への穴埋めへの責任は負わない、あくまで「協力金」としたに等しい。
命令があろうがなかろうが、「要請」というのが、事業者名の公表を伴うのならば、これは、結局、「従え」という圧力なのだから、国や自治体が補償するというのが本筋である。

それはコロナが「公衆衛生上」の危険な感染症だからである。危険だから「指定感染症」として指定され、改正をして「新型インフルエンザ等感染症」として、国の対策義務は明確にされているのである。

感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律

第六条

7 この法律において「新型インフルエンザ等感染症」とは、次に掲げる感染性の疾病をいう。

三 新型コロナウイルス感染症(新たに人から人に伝染する能力を有することとなったコロナウイルスを病原体とする感染症であって、一般に国民が当該感染症に対する免疫を獲得していないことから、当該感染症の全国的かつ急速なまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがあると認められるものをいう。)

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=410AC0000000114

 

 

政府の義務が明確であるならば、政府が損害に対して支出しなければならない。しかし、それを「命令ではないから法的拘束力はない」と、厳罰化に反対した野党のせいにしながら(つまりこれは屁理屈である)巧妙に国家の補償責任をうやむやにしたともいえる。
災害でもなんでも国家や自治体が指示命令権と無関係に、民間の壊れた建物などに一定の復旧のための支援費用を出している以上、コロナも不可避な自然災害に見舞われているとして、その金銭的損害や感染に国や自治体は折半して、一定の費用を払わねばならないはずだ。

新型インフルエンザ等対策特別措置法

(国、地方公共団体等の責務)
第三条 国は、新型インフルエンザ等から国民の生命及び健康を保護し、並びに新型インフルエンザ等が国民生活及び国民経済に及ぼす影響が最小となるようにするため、新型インフルエンザ等が発生したときは、自ら新型インフルエンザ等対策を的確かつ迅速に実施し、並びに地方公共団体及び指定公共機関が実施する新型インフルエンザ等対策を的確かつ迅速に支援することにより、国全体として万全の態勢を整備する責務を有する。

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=424AC0000000031_20210401_503AC0000000005

国は「生命」「健康」を「保護」し「経済」「生活」に「及ぼす影響が最小となるために」「国全体として万全の態勢を整備する責務を有する」のだ。

ところが、片方で、自助努力を民間企業特に飲食店や映画館やライブハウスや風俗店に求めながら、特定の業態であるパチンコ店やライブハウスや風俗店などを知事や大臣がなっとらんと攻撃したのである。
これはまさしく分断統治である。

消費者と特定業界を争わせ、国や一部自治体が適切な対策や補償をしないという問題がうやむやにされてしまった。

(念のための追記7/6

感染対策を国や自治体が求めるとしても、その分、業者への支援や補償も十分ではないのに、社会的にバッシングしてはいけないということ)

こんなすり替えを国はしてはいけないのだ。

基本的人権の尊重)
第五条 国民の自由と権利が尊重されるべきことに鑑み、新型インフルエンザ等対策を実施する場合において、国民の自由と権利に制限が加えられるときであっても、その制限は当該新型インフルエンザ等対策を実施するため必要最小限のものでなければならない

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=424AC0000000031_20210401_503AC0000000005

また、その一方で厚生労働省や麻生副総理やデタラメな御用学者は、「検査は増やさなくてよい」とかエアロゾル感染はなかなか認めないし、無症状者もチェックしないし、果ては、維新が雨ガッパを集めたり、安倍がアベノマスクを配ったり、go toをしたり、オリンピックを執拗に開催しようとしたり、感染対策を骨抜きにするようなことをし続けたのである。

 

「アベノマスク」評価は? 全戸配布開始から1年―使用3.5%「意図伝わらず」:時事ドットコム https://www.jiji.com/jc/article?k=2021041700410&g=soc @jijicomから

麻生財務相「マスクはいつまでやるの?」 コロナ長期化に愚痴
2021/3/19 12:04(最終更新 3/19 13:26)

https://mainichi.jp/articles/20210319/k00/00m/010/111000c

 

大阪市、あの「雨ガッパ供出」に新事実 府も約21万着調達し、倉庫に眠る20万着
2021.4/6(火) 16:01配信

週刊女性prime

https://news.yahoo.co.jp/articles/350adcfc3931316f676b7d51d6414d8975b41f09

厚労省

改訂された手引では、エアロゾルについて「密閉空間において短距離での感染を示唆する報告がある」としたが、感染流行への影響は「明らかではない」とした。(2020/09/07-17:02)

時事ドットコム https://www.jiji.com/jc/article?k=2020090700721&g=soc 

 

PCRが受けられない」訴えの裏で… 厚労省は抑制に奔走していた
2020年10月11日 05時53分 東京新聞

「PCR検査は誤判定がある。検査しすぎれば陰性なのに入院する人が増え、医療崩壊の危険がある」―。新型コロナウイルスの感染が拡大していた5月、厚生労働省はPCR検査拡大に否定的な内部資料を作成し、政府中枢に説明していたことが、民間団体の調査で判明した。国民が検査拡大を求め、政権が「件数を増やす」と繰り返していた時期、当の厚労省は検査抑制に奔走していた。
 厚労省の資料は「不安解消のために、希望者に広く検査を受けられるようにすべきとの主張について」と題した3ページの文書。コロナ対策で政府関係者への聞き取りをしたシンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアティブ」(船橋洋一理事長)が8日公表の報告書に載せた。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/61139

これによって、人々は、二重拘束状態に置かれた。
人々は、「危険なウィルスから身を守りなるべく会食や3密を避ける」一方「コロナなど気にせず、飲食や観光を支えよ」と、国や経済界からいわれているのである。

つまり、これは資本主義と国家が合体した人々と自然への搾取体制が抱えている必然的な矛盾なのである。

しかし、当然、命がなければ、人生も商売もあったものではない。
だから、私たちは、当然感染対策も経済補償も国に求めるのである。
いくら感染リスクを「気にするな」といわれても、多くの人が感染対策をするのは、自分と自分の周りのひとが共に生きていきたいからであって、洗脳のせいでも、根性が足りないからでもない。
それは内在的な共感と連帯の証しなのである。
新型コロナウイルスを心配する人」が悪いのではない。責任を取り、命を大切にする政治・経済システムに移行し、自然と人間の命を共に大事にするようにしない国家と資本主義の支配層に問題がある。

資本主義と国家の支配層は「民主主義と人権」を背景に権力や富を得ている以上、人々に「命を守るために、私たちはがんばります」といわなくてはならない。
ところが、そのためには、ウィルスの感染機会を断たねばならない。
検査をして、感染者を療養させ、治療し、感染者を減少させていくしかない。

 

(※2021.7.13am0……補記

日本政府はそもそも、PCR検査が増えなかったどころか、増やす必要すら認めなかった。

これは感染症の診断体制を絞って見かけの患者数を減らすためにしか思えず、実際に検査が受けられない人々が不満や怒りを爆発させた。

コロナかもしれないのに、診断も治療も受けられないのは、人々の安心や安全を奪った。

また、検査が足りないと速やかに治療に入れない人の数が増えることにもつながったのではないか。

 

原発事故でも被曝の健診や調査もあまりやらずに、安全と決めつけたように、被害を調べないという体質が日本政府にはあるように思える。)

コロナ被害を小さくするために、検査や補償などありとあらゆることをやれば、台湾やオーストラリアやニュージーランドや中国や韓国やベトナムのようになれるかもしれなかった。現にこれらの国々は検査や治療の体制を整備し、変異株台頭以前は、感染を抑えながら経済社会を動かしてきた。

しかしアジアや太平洋地域への日本国の蔑視は根深く、学ぼうとしない。学んでもなかなか取り入れない。

また、対策を頑張るのは、さんざん新自由主義で、医療体制を削減したので無理と、開きなおったようにみえる。

 

そこで、野党の度重なる要求にもかかわらず「休業補償」をやらず「協力金」にすり替え、国家は、コロナという災害で人々が感染と金銭に両方困っているときに、頑なに支援制度を拡充せず、検査も少なく、医療も逼迫しているのである。

 

おそらく、国は当然気象災害や様々な種類のパンデミックが、頻発することを想像はしているはずである。
気候変動も様々な種類のパンデミックもつまりは、森林破壊を止め、様々な生産業の脱炭素化、脱原発(原発も排水で海洋を温め、稼働時の莫大な火力電源やウラン採掘などで燃料を消費し、放射能も出す)、ドラスティックな技術革新と、小規模分散で、自治を大事にする経済に変わらないと、止まらないからである。

しかし、多くの人はまだ、トランプや麻生などの邪悪な資本主義国家支配層の口車に乗り、災害もパンデミックも目をつぶれば一時的な災害として乗りきれると考えている。

(※2021.7.10 Am1追記

一時的なものと、なめきっているからこそ、PCR検査や医療体制の拡充支援や、定期的な生活支援や休業補償が不十分なままなのである。それを無視したままワクチンだけに期待を寄せ、供給体制構築に失敗し自治体に責任をなすりつけている。挙げ句、ワクチンの検証体制も脆弱で厚労省の第三者委員会からも批判の声が上がっている。リスクとベネフィットを知るには検証と情報公開が不可欠なはずだ)

【行政評価監視委員会】「評価不能」判定を疑問視‐ワクチン副反応報告に指摘
2021年06月30日 (水)
https://www.yakuji.co.jp/entry87978.html )

 


仮にコロナ禍が収束しても気象災害とまた別のパンデミックは、繰り返される恐れがある。なぜなら、この人間社会の地球環境破壊が根底にあるからだ。

つまりパンデミックや気象災害は、資本主義の国家の現行の自然破壊や不平等を利用して金を作る仕組みが破綻しているという警告なのである。

熱帯林保護は感染症予防策


国連環境計画(UNEP)インガー・アンダーセン事務局長は今年4月、新型コロナウイルスの感染拡大について「自然をうまく管理すれば、人間の健康も維持できる」と見解を発表した。壊れやすい生態系に人間が入り込むことで、人間と野生生物の接触がかつてないほど増大していることや、野生生物の違法取引が深刻な感染症を悪化させていると説明した。新しい感染症の約75%は人畜共通感染症であり、こういった感染症から毎年約10億の事例と数百万人の死者が発生していると警鐘を鳴らしている。
https://www.gef.or.jp/globalnet202007/globalnet202007-5/

そして日本中世界中の多くの人がオリンピック開催に懸念や反対を示しているのも、みんな命が大事だと、国家の暴挙の前に、はっきりしたからである。

 

 

 

 

この1年数ヶ月ほどコロナ禍で主張してきたことの簡単なまとめのようなものとなると思います。
本当にすり減りました。気力も削られて、自分の精神状態も落ち込みました。いろんなことを考え悩みました。
皆様もコロナ禍本当にお見舞い申し上げます。
これからも、なんとかやっていきたいです。

 

PALE ALE

PALE ALE

 

 

※2021.7.6 am 0.06 複数の資料記事を補記しました。

人間の苦や困難を直視しなくなる文明はナチスや大日本帝国や地球環境破壊や無謀な東京五輪を生み出す。命の脆さ、苦しみや危険を無視し、個体性を無視した結果だーオリンピック批判の根底にある事態

 

私は自閉系の発達障がいとその生きづらさによる二次障がいである精神疾患がある。

10代の頃から、死にたいと感じたことはなんどもあったし、生きるのが辛くて、叫んだり、荒れたり、父親と取っ組み合いになったことは、何度かある。

まず、そのような場合、私自身が辛い。
そして当然周りも辛い。

次に精神障がいや発達障がいの診断があるまでは、辛いけど何が理由で辛いのかよくわからないわけで、ものすごく不安だった。
勝手に「人間失格」と決めつけて自分を責めていた。
周りからも、根性が足りないとか、できるのにやらないとか言われたこともある。

そうやって自他ともに責められていたことが、例え医学的な概念であっても、理由や説明が行われれば、対処可能になるし、社会的にも休養や支援が必要とみとめられる。

そのまま訳もわからず頑張り続け、頑張らせられて、死んだり、さらに取り返しのつかない心の傷を負うよりは、ずいぶんマシだ。

変わっているからと、バカにされたりいじめられたりの学校生活であった。
対人関係で、引っ込み思案になったり、無理に頑張ったりしてへとへとになった。
大人になっても仕事が続かず気力をなくしたり、死を考えたりしていた。
で、仕事や様々なことに挫折して、30くらいで、希死念慮が悪化した。
苦しいし、危険である。
そのため、極めて少量だが、抗精神病薬を服用して、死を考えてしまう症状を乗り切った。ほとんど反射的に死を考える状況はなかなか意志の力では止めがたいが、これがなかなか理解されない。
非常に巨大化した精神的ストレスは、私の実存を破壊しようとする。

このことが世間の理解をえられない。気力や祈りで、精神病レベルの苦痛はなかなか乗りきれない。
脳が自己破壊的な思考に支配されてしまう。
それはまさに脳の奥底から浮かんでくる恐ろしい呼び掛けである。
脳がそうなってしまうまで、我慢していたのだ。

まず、精神的に著しく疲労し、破壊された人間は、気力がすり減っている。
次に、すでに、私は生きよう生きようと祈る気持ちで生きてきた。祈る気持ちや他者の優しさを越えて、私自身を破壊しようとする心の声が心身を縛り付ける。

簡単にいえば、希死念慮は、生易しいものではない。

私は薬剤に対して感受性が高いようで、すぐに効果が出た。
もちろん副作用もあり、滑舌が悪くなったりした。辛い、そう訴えると医師は量を調節し、精神症状が改善したタイミングで、速やかに抗精神病薬の投与を終えた。
まともな医者は副作用に速やかに対応すると思った。

春には、希死念慮と不安と混乱で家から出られず、ベッドでうなっていたが、夏には、詩集の販売のため東京に出かけることもできた。(もちろんできたが、体調は不安定である)

要するに精神疾患や発達障がいにサポートが必要な理由を問われたら、感覚マイノリティーである人々は、心身に過酷な負荷を負うからだ。

それは、往々にして死や日常的な耐え難い苦痛としてあらわれる。

私たちのために、今すぐ社会が変化できるわけではない、変化には時間がかかる、私たちの心身の負荷によりただちに私たちが死なないために、痛みや苦しみを取り除く必要はゼロにはならない。
私たちが痛みを取り除くとき、引き換えにかかる肉体への負荷は必ずある。医学的な治療にはそのようなリスクもある。

実は、「メリットとデメリット」というのは、そういう極めて冷酷な論理であるが、それを知らない人は多い。

いろんな医師や処方があるから各人しっかり医師とコミュニケーションを取ってほしいし、医師もちゃんと説明すべきだ。
私を騙すような医師は私は出会わなかったが、いい加減な態度で私に臨む医師は何人かいた。
私は信頼できない人間の治療は断って、病院を出た。
私は医師に騙されたり、思いどおりにされたまま黙っている人間ではない。
病院を転院して、ちゃんと話が出きる医師だったから治療の話をできた。障がい年金の診断書も書いてもらった。
家族や周りの人にも手伝ってもらい、私は渾身の力で申し立て書を書いて、年金の申請をした。
前の医師は、障がい年金の申請は下りないといっていたが、申請は認められた。

私はその中で、治療の要不用を判断してきたのだ。

もちろん精神科医療に問題がないとは全く思えない。
極めて短い診療時間、薬だけ出す医者、話を聞かない医者、不当な拘束や患者の自由を奪う治療環境、こんなものは、ざらにある。
改善すべきことは山ほどある。

精神科医療は、社会的に差別されている収容先になっている面がある。
だからこそ、治療環境がもっとよくなり、人権が大切にされなければならない。
嫌な医師やワーカーにも私はたくさんであってきた。

私は何年も薬を服用してきた。今は多くが漢方薬に切り変わってきたが、定期的に採血し、体を労るように暮らしてきた。
もちろん、私も薬ばっかりを飲むのは嫌だから漢方やヨガをしたりしているのだ。
それでも、巨大な精神変調がいつ起きるかわからない。

だから今も薬は飲んでいる。
原発事故時やコロナ禍において、医師は動揺し、気分変化する私に付き合ってくれた。
根底にある問題に向き合わねばならないと発達障がいの診断を受けたのも社会的に苦しみや困難を軽減するためだ。

それでも、波がある、負荷や悩みがあると心身は不調になる。
原発事故もコロナ禍も日常に危険が侵入してくる。不安の強い私は苦しい。


以前の精神科治療とは違い、最近はメインの疾患には一種類の薬で対処する原則ができている。もちろん症状の強さや複数の疾患など、複数の薬を併用しなければならない場合もある。ただあまりにも多剤では、耐性がつきやすく、また副作用も大きくなる。それは多くの患者が苦しんできた歴史でもある。

精神障がいや発達障がいに対する偏見と、新型コロナウイルス放射能に対する過小評価には、似たところがあって、それは、「人間は自然体で健康に生き、様々なリスクを気にしなければ、病気にならないし、例え、困難や苦悩があっても乗り越えられる」という人間の健康に対する過信である。

人間の健康に対する過信というものがなぜ生まれるか。
その人がほとんど病気したことないからか?
そうだろうか?
精神論者だからか?
単にそれだけなんだろうか?

多くの人は社会的なストレスやリスクにさらされているはずである。
ストレスやリスクにさらされていても、政府などによる公的支援がないと、リスクやストレスを「我慢する」というふうにならざるをえない。
また、起きたことを「いちいち気にしない」という対処が身についてくる。

ここからは、私の推測であり仮説である。

それはあまりにも痛々しいのだが、そうやって「誰の力も借りられないから、自分で頑張る」という意志だったものは、追い詰められて、「こんなものは平気、負けない」に変わることがある。

自己責任論を内在した結果、非常に強い根性論にもなってしまう。

どうもそんなやせ我慢のロジックが働いているようにみえる。

一見、強く、前向きにすらみえる態度。何が問題だろうか。

最悪の末路をたどればこうなる。
「私たちは気にせずに生きようとしているのに、なぜ一部の人は苦しみを訴え、助けを求めるのか」と、正当な権利であるはずの、ケアやサポートを求める声を封じ、それらは「大したことがない」となる人がまま増えて、集団化することがありうるのだ。実際その兆候はある。

あらゆる公害や戦争や人権侵害に対し、反対し対策を求めてきた人、特に被害者やマイノリティーを襲う声である。

もちろん放射能汚染やコロナ禍は先が見えない。

しかし、それを単に大したことないと切り捨てると、「一億総玉砕」的な発想になってしまう。
オリンピックとはその具現化ではないか。

私は科学的な視点だけでこのような話をしているわけではない。
命というものは、弱い方、脆い方から大切にしないと、結局壊滅するという教訓がある。様々な世界宗教の中核にあるのは、人間は病むのが当たり前だということだ。
だから、命に対する誠実で愛に満ちた眼差しと行いがつまりは救済なのだ。
これは、宗教という枠組みを越えてある種の社会連帯の基礎ですらある。
キリストや仏陀が偉いのではない。命はそうでないと生きられないのである。ケアやサポートなしに命はつなげないのだ。

人間の苦や困難を直視しなくなる文明はナチス大日本帝国や地球環境破壊を生み出す。
苦しみや危険を無視し、個別性、個体性を無視した結果だ。

日本は実際そのような状況に向かっている。
まさにオリンピックがそうだ。

自分たちの状況を改善がなかなかできない専門家や医療者、政治家、官僚、富裕層などに対して、「真面目に仕事をしろ」「公的な義務を果たせ」というのではなく、「どうせ、専門家や政治家は当てにならない」になる。そこまではわかるのだが、次にどんどん飛躍が始まり、「すべての対策を止める」に展開する人々がいる。

逆に経済被害者や疾患者が増える方向に行きかねないのである。
そうなってしまう人が一定数いるというのは、なんと言うか、苦しい。

ここまで来ると本末転倒な事態になりかねない。それに、被害者との間に分断が起きてしまう。
被害や病気に苦しむ人を無視する言説になりかねないからだ。

また、コロナや放射能が「大丈夫」となれば、生活や経済の補償まで「必要ない」と権力はしてくるだろう。

「コロナは風邪」「放射能は平気」「精神疾患は気のせい」などは、人々の苦しみをミスリードする、そういう作用を持つ言説であると思っている。

自分の力を信じることや、健康でいることはとても大事だ。
しかし、それが奪われた人のこと、当たり前に生きられない人間の、苦しむ自然の、命の脆さについて考えてほしい。

私は精神疾患で、自殺してしまいかねないところを、医師や様々な人に支えてもらった。

苦しいときに力を借りてほしい。

コロナ禍でも放射能汚染でも貧困でも差別でも病気でも、人の助けが借りられる社会であってほしい。
苦しみを話せる社会であってほしい。
そうすれば、精神と発達の障がいをもつ私も生きやすくなれるはずだ。

患者体験には様々なものがある。様々な障がい者や病者の体験がある。
みんなもっと知ってほしい。

【詩作品】ジャスタロンリープレイス

 


生きていけないと
思いながら
途を歩いてきた
夢のなかを
歩いていた
そのつもりでした

クムクムクム

難しくて
汗流す
そんなに
気張らなくて
いいのにさ

古い家が
城跡の
もう城がない
そのあとに並んでいた
少しずつ古い建物が
消えてゆくのに
もう城もないのに
そこはまだ
城下町に
見えるんだけど

僕たちは
何をみてるんだろ

在るもの
と無いものがあり
透かし彫りのような
過去の前に
僕はひざまずいている
四方から吹いてくる
未来の風は
ただじゃ済まない

方向もなく
一人一人に
方向が与えられているのか
わからない
眠ることさえ
できない
目覚めたとき
ただそれが
「毎日」と
気づくのであって

木の枝が騒いでいる
寂しさを埋めた日に
なおも
木の枝が騒いでいます

世界には
埋められることのない
寂しさがあるために
僕だって寂しい

これはただの
病気じゃないさ
気のせいじゃないさ

僕は小さな頃から
ずっと感じてきたんだ

小さな鉄道が
何本か
かたかたと
揺れて
僕の気持ちは
あまり
温かく思えない

石の塔が
見えて
堤の上に出る

僕は
誰の代わりに
悩んできたのか

この中にある
気持ちは
もはや
誰が泣き
誰が愛したものか
わからない

しかし
僕の
胸だろう
これは

確かに


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【詩作品】1日の仕事

 

高い雲を見ている
流れている

響く
風に
立ち止まる

悩み
立ち止まり
生まれる
何が

いつもの
この私の
意識が
生まれてくるようで

でも
ふと
わからなくなって
確かに
私がいたのに

緑の葉が
重なりあって
日が
鈍く
かさかさと
気持ちがよい

また進み
苦悶する
歩み

土の
匂いが
立ち上がり
これからの
未来を
考えようとする

でも

また
私のことを
はっきりと
つかめなくなる

広がる
グラウンドから
複数の
人間が
呼びかけてくる

それぞれに
「私」の意識が
あるのだろう

だけど
私と「私」の
切れ目がわからない

空に向かって
あなたは?
あなたは?
あなたは?
と呼びかける

空から
宇宙へと
どんどん
連続している
広がりがある

あなたは?
あなたは?
あなたは?

私は
あなたの一番奥に
話しかけている

だから
私は
あなたとの
境目がわからなくなる

しかし
境目がなくても
それぞれの
孤独が
わかるような気がして

水を飲んで
身体の中で
冷たい細い紐が
広がって
冷たい水の
冷たさと
身体の境目が
なくなる

境目がないのに
その一瞬は
奇跡のように
はっきりして
それだけが1日の
仕事のように
思えてきて

私は
疲労している

 

「火垂るの墓」と「はだしのゲン」ー名作から見る戦争とオリンピックにおける「現実否認」の危険とその暴走について

高畑勲監督アニメ映画「火垂るの墓」は、中沢啓治作のマンガ「はだしのゲン」とほとんど正反対の描き方を用いた作品であるが、人間が集団で、戦争のもたらす過酷な現実を否認し、歪めて美化しつづけた結果、どんなに過酷な帰結となるかというテーマは同じなのである。

コロナ禍の現実、予想される命のリスクをなきが如くにし、私たちの暮らしの被害を置き去りにしてオリンピックをしようとする、原発事故の現実を封印してしようとするという状況は許しがたいものだ。

その中で、上記2つの作品を見た場合、胸に突き刺さるものがある。

両者の大きな違いは、「はだしのゲン」が生者による「巨大な死」の描写であり、「火垂るの墓」が1988年の神戸をさまよう2人の兄妹の亡霊による「死者」の眼差しで見た「死に向かう日々」の描写である。

また、「火垂るの墓」の父親が海軍大尉であり、「はだしのゲン」の父親が戦争反対論者という意味でも正反対である。


火垂るの墓」の兄妹は、父親が「戦争に勝って帰ってくる」という夢想、自分たちは海軍大尉の子どもというイメージに浸って辛いことを凌いでいるようだが、それは空襲による母の死や母の死のあと置いてもらったおばの家での現実や日本の敗戦、父の死という形で、「必ず勝つはずの海軍大尉の子ども」という自己像は自らを逆に追い詰め、死へと追いやられる。
反対に、「はだしのゲン」の父親は、あの当時反戦の立場で迫害や貧困に耐えながら、筋を通そうとし続けて原爆で亡くなる例外的な人物である。
ゲンの兄は、そんな父に反発し、予科練を志願するが、過酷な現実を知る、ゲン自身は父から敗戦が近く過酷な現実であることを伝えられながら、麦のように強くと教えられ、その教えに励まされながら被爆後の広島を生きるのである。

両者は、日本の国が「敗北」の想定や「侵略の悪」という不都合な現実から社会全体が目を逸らして、陥る現実の果ての2つの過酷な現実を描いている。

上記2作品とも、戦後復興した社会において、侵略戦争と敗戦で問われた日本の課題が放置されたままになっていることを問うているのである。
はだしのゲン」がひたすら、辛い被曝の現実を描きながら、子どもたちの笑顔が同時に描かれ、「火垂るの墓」が高畑監督自身に「反戦映画ではない」と言わしめているのはなぜか。

それは、人間が不都合な現実を否認して、現状を批判的に見られなくなることが、どんなに巨大な破壊や死を生み出すかは、単なる戦争だけの課題ではなく、「普遍的なこと」だからである。

その事実は懸命な、悲痛な人間のありのままの姿を描かねば他人事にされてしまいかねない。
単なる戦時の特殊事例ではない、そのような普遍的な教訓を観客に知らせたいのである。

戦争は平常の現実政治の延長である。

腐敗や格差が温存され、不況や災害や疫病では、民衆にツケが回され、民衆はさらにマイノリティーを叩いてしまう。敵意と憎悪と差別と同時に、都合の悪い現実に目を閉ざすフェイクニュースや右派言論がSNSのみならず、現実を侵食する。
この何十年、バブル以降、原発事故、コロナ禍で、どれだけ、様々な命へのリスクを真剣に考慮せず、自己責任で切り捨てることが行われてきたか。

地球の人間社会が過酷な現実を封印して、今までの問題のある世界を追認してきたからこそ、不平等で、環境破壊的な産業形態が温存され、破局が目前になっている。

つまり、第二次世界大戦や冷戦は人間同士の戦いであり、その後の紛争もそう見えるけれども、その戦争と同時に、環境破壊が起きてきたのである。

放射能汚染やパンデミックは、人間社会が無謀な開発行為を行い、環境破壊をした結果、様々な毒物の氾濫に抑制が効かなくなっているのである。環境破壊が野性動物の生存域を脅かし、野性動物のウィルスが人間に感染して変異したコロナ禍、環境を無視してきた原発地震リスクを考慮しなかった原発の爆発。

それらによって起きたのは、自然の修復作用を越え、脅かす現実なのである。

その危険な現実をまずは見つめること、その先にしか未来はないのだ。
76年前の破局は、今日、地球規模の政治・経済体制の破綻、環境破壊となって繰り返されようとしている。

辛い現実から私たちは、その意味や教訓を学びとり薬にするしかないだろう。
そのための、材料は破局の危険に目を逸らしさえしなければ、山ほどある。

むしろ今日危機的なのは、「破局の危険」を正視、分析することを阻んだり、リスクを否定する流言である。

環境危機、原発事故、コロナ禍、災害などで、人心が荒廃すればするほど、人は憎悪を見当違いにぶつけ、実際に何が起きているのかを考えることを妨げる言葉に惹かれていく。

辛いという気持ちは理解できるし、私も辛い。けれども、戦時中や災害下で流された流言には差別的、攻撃的なものも数多くあったと考えるなら、流されないことの方が、破局的な現実から回復するのに必要で、それと同時に自らの辛さや悲しみはけして否定しないということが大事だ。
はだしのゲン」が教えてくれているのはそのような危機の中での知恵である。

目を向けねばならないのは環境危機や様々な災害や格差による生活危機、命の危機である。

 

このような状況で、オリンピックをしようとするのは、人間の健康や権利を踏みにじること。それをオリンピック推進体制が容認しているといえる。

とんでもないこと。

オリンピック推進体制そのもの、オリンピックそのものに問題があるということに他ならない。