細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

【詩作品】ジャスタロンリープレイス

 


生きていけないと
思いながら
途を歩いてきた
夢のなかを
歩いていた
そのつもりでした

クムクムクム

難しくて
汗流す
そんなに
気張らなくて
いいのにさ

古い家が
城跡の
もう城がない
そのあとに並んでいた
少しずつ古い建物が
消えてゆくのに
もう城もないのに
そこはまだ
城下町に
見えるんだけど

僕たちは
何をみてるんだろ

在るもの
と無いものがあり
透かし彫りのような
過去の前に
僕はひざまずいている
四方から吹いてくる
未来の風は
ただじゃ済まない

方向もなく
一人一人に
方向が与えられているのか
わからない
眠ることさえ
できない
目覚めたとき
ただそれが
「毎日」と
気づくのであって

木の枝が騒いでいる
寂しさを埋めた日に
なおも
木の枝が騒いでいます

世界には
埋められることのない
寂しさがあるために
僕だって寂しい

これはただの
病気じゃないさ
気のせいじゃないさ

僕は小さな頃から
ずっと感じてきたんだ

小さな鉄道が
何本か
かたかたと
揺れて
僕の気持ちは
あまり
温かく思えない

石の塔が
見えて
堤の上に出る

僕は
誰の代わりに
悩んできたのか

この中にある
気持ちは
もはや
誰が泣き
誰が愛したものか
わからない

しかし
僕の
胸だろう
これは

確かに


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【詩作品】1日の仕事

 

高い雲を見ている
流れている

響く
風に
立ち止まる

悩み
立ち止まり
生まれる
何が

いつもの
この私の
意識が
生まれてくるようで

でも
ふと
わからなくなって
確かに
私がいたのに

緑の葉が
重なりあって
日が
鈍く
かさかさと
気持ちがよい

また進み
苦悶する
歩み

土の
匂いが
立ち上がり
これからの
未来を
考えようとする

でも

また
私のことを
はっきりと
つかめなくなる

広がる
グラウンドから
複数の
人間が
呼びかけてくる

それぞれに
「私」の意識が
あるのだろう

だけど
私と「私」の
切れ目がわからない

空に向かって
あなたは?
あなたは?
あなたは?
と呼びかける

空から
宇宙へと
どんどん
連続している
広がりがある

あなたは?
あなたは?
あなたは?

私は
あなたの一番奥に
話しかけている

だから
私は
あなたとの
境目がわからなくなる

しかし
境目がなくても
それぞれの
孤独が
わかるような気がして

水を飲んで
身体の中で
冷たい細い紐が
広がって
冷たい水の
冷たさと
身体の境目が
なくなる

境目がないのに
その一瞬は
奇跡のように
はっきりして
それだけが1日の
仕事のように
思えてきて

私は
疲労している

 

「火垂るの墓」と「はだしのゲン」ー名作から見る戦争とオリンピックにおける「現実否認」の危険とその暴走について

高畑勲監督アニメ映画「火垂るの墓」は、中沢啓治作のマンガ「はだしのゲン」とほとんど正反対の描き方を用いた作品であるが、人間が集団で、戦争のもたらす過酷な現実を否認し、歪めて美化しつづけた結果、どんなに過酷な帰結となるかというテーマは同じなのである。

コロナ禍の現実、予想される命のリスクをなきが如くにし、私たちの暮らしの被害を置き去りにしてオリンピックをしようとする、原発事故の現実を封印してしようとするという状況は許しがたいものだ。

その中で、上記2つの作品を見た場合、胸に突き刺さるものがある。

両者の大きな違いは、「はだしのゲン」が生者による「巨大な死」の描写であり、「火垂るの墓」が1988年の神戸をさまよう2人の兄妹の亡霊による「死者」の眼差しで見た「死に向かう日々」の描写である。

また、「火垂るの墓」の父親が海軍大尉であり、「はだしのゲン」の父親が戦争反対論者という意味でも正反対である。


火垂るの墓」の兄妹は、父親が「戦争に勝って帰ってくる」という夢想、自分たちは海軍大尉の子どもというイメージに浸って辛いことを凌いでいるようだが、それは空襲による母の死や母の死のあと置いてもらったおばの家での現実や日本の敗戦、父の死という形で、「必ず勝つはずの海軍大尉の子ども」という自己像は自らを逆に追い詰め、死へと追いやられる。
反対に、「はだしのゲン」の父親は、あの当時反戦の立場で迫害や貧困に耐えながら、筋を通そうとし続けて原爆で亡くなる例外的な人物である。
ゲンの兄は、そんな父に反発し、予科練を志願するが、過酷な現実を知る、ゲン自身は父から敗戦が近く過酷な現実であることを伝えられながら、麦のように強くと教えられ、その教えに励まされながら被爆後の広島を生きるのである。

両者は、日本の国が「敗北」の想定や「侵略の悪」という不都合な現実から社会全体が目を逸らして、陥る現実の果ての2つの過酷な現実を描いている。

上記2作品とも、戦後復興した社会において、侵略戦争と敗戦で問われた日本の課題が放置されたままになっていることを問うているのである。
はだしのゲン」がひたすら、辛い被曝の現実を描きながら、子どもたちの笑顔が同時に描かれ、「火垂るの墓」が高畑監督自身に「反戦映画ではない」と言わしめているのはなぜか。

それは、人間が不都合な現実を否認して、現状を批判的に見られなくなることが、どんなに巨大な破壊や死を生み出すかは、単なる戦争だけの課題ではなく、「普遍的なこと」だからである。

その事実は懸命な、悲痛な人間のありのままの姿を描かねば他人事にされてしまいかねない。
単なる戦時の特殊事例ではない、そのような普遍的な教訓を観客に知らせたいのである。

戦争は平常の現実政治の延長である。

腐敗や格差が温存され、不況や災害や疫病では、民衆にツケが回され、民衆はさらにマイノリティーを叩いてしまう。敵意と憎悪と差別と同時に、都合の悪い現実に目を閉ざすフェイクニュースや右派言論がSNSのみならず、現実を侵食する。
この何十年、バブル以降、原発事故、コロナ禍で、どれだけ、様々な命へのリスクを真剣に考慮せず、自己責任で切り捨てることが行われてきたか。

地球の人間社会が過酷な現実を封印して、今までの問題のある世界を追認してきたからこそ、不平等で、環境破壊的な産業形態が温存され、破局が目前になっている。

つまり、第二次世界大戦や冷戦は人間同士の戦いであり、その後の紛争もそう見えるけれども、その戦争と同時に、環境破壊が起きてきたのである。

放射能汚染やパンデミックは、人間社会が無謀な開発行為を行い、環境破壊をした結果、様々な毒物の氾濫に抑制が効かなくなっているのである。環境破壊が野性動物の生存域を脅かし、野性動物のウィルスが人間に感染して変異したコロナ禍、環境を無視してきた原発地震リスクを考慮しなかった原発の爆発。

それらによって起きたのは、自然の修復作用を越え、脅かす現実なのである。

その危険な現実をまずは見つめること、その先にしか未来はないのだ。
76年前の破局は、今日、地球規模の政治・経済体制の破綻、環境破壊となって繰り返されようとしている。

辛い現実から私たちは、その意味や教訓を学びとり薬にするしかないだろう。
そのための、材料は破局の危険に目を逸らしさえしなければ、山ほどある。

むしろ今日危機的なのは、「破局の危険」を正視、分析することを阻んだり、リスクを否定する流言である。

環境危機、原発事故、コロナ禍、災害などで、人心が荒廃すればするほど、人は憎悪を見当違いにぶつけ、実際に何が起きているのかを考えることを妨げる言葉に惹かれていく。

辛いという気持ちは理解できるし、私も辛い。けれども、戦時中や災害下で流された流言には差別的、攻撃的なものも数多くあったと考えるなら、流されないことの方が、破局的な現実から回復するのに必要で、それと同時に自らの辛さや悲しみはけして否定しないということが大事だ。
はだしのゲン」が教えてくれているのはそのような危機の中での知恵である。

目を向けねばならないのは環境危機や様々な災害や格差による生活危機、命の危機である。

 

このような状況で、オリンピックをしようとするのは、人間の健康や権利を踏みにじること。それをオリンピック推進体制が容認しているといえる。

とんでもないこと。

オリンピック推進体制そのもの、オリンピックそのものに問題があるということに他ならない。

 

 

人間が野性動物の圏域をおびやかさないことがパンデミック防止に大切ではないかという1つの視点

(3日くらい前に書きました)
精神的疲労がピークだった。

インターネットを休んだら体調が少し良くなった。
そして、少しだけ活字も読むのが辛くなくなった。しかし、好調というにはまだまだだ。そもそも人生で好調が数えるほどしかないのが問題だが。

昔はSNSで孤独を埋めていたのだが、ここ何年もはむしろ苦悩の種を拾って悩むパターンになっていた。

というか日々疲れてストレスとなり、勝手に自信がなくなっていっていた。

 

日本の社会だけでなく世界も大変で、私は心身が打たれ弱いときている。
SNSをやって、自分にもわずかな力を感じたが、頑なさキャパシティのなさも自覚した。
もう自分を追い詰めたり、自分の無力、ダメさを放置して、カッコつけてもしかたないのに。

原発事故やコロナで、危険や困難に向き合う人と、見て見ぬふりする人の溝は深まるばかりだ。

しかし、それは日本の危機、地球の危機の中で必然的にあらわれてきたものであろう。

私が小学生や中学生のとき、ナウシカチェルノブイリで感じた地球大の危機はそれだったのである。

新型コロナウイルスが示しているものは、気候変動と同じである。

人間自身が環境を破壊したことで、地球が人間を含む生命の住めない圏域になる恐れがあるのだ。

新型コロナウイルスについては、様々な原因説が流れたが、私が示唆を受けた原因説として、人間が経済開発による森林伐採や大規模家畜や珍しい動物を食べたりペットにするために、野生動物の生息域を荒らして、野生動物の下で大人しく暮らしていたコロナウイルスが人間に触れ、新型に変異し、感染力と強毒性を獲得したのだという。

長い時間をかけて、コウモリのような生き物とウィルスは、関係を築いたのであり、人間が簡単にそんな反応系を獲得できないと思うので、私たちは命を守る対策をしながら、自然を「脅かさない距離関係」を築くべきだと思った。

私がコロナとの「(対策なしの)共生、共存」という言葉にためらい、違和感を感じる理由である。
むしろ本来一緒になるべきではないから、ウィルスが激烈な反応をしているのではないかと。

そして、コロナウイルスの他にも動物由来感染症がまた新たなパンデミックを引き起こす恐れはある。
ならば、私たち人間が自然を追い詰めないようにしなければならない。

ここから考えると、私たちは自然界を荒らさず脅かさず追い詰めず、私たちは野生動物やウィルスの暮らす圏域から距離を取り、お互いに「棲み分ける」しかない。
私はこの説を知ってから、地球大での、様々な生物の暮らしのためには、人間が自然界をよく知り、未知に謙虚になり、人間側からだけ考えた共存の哲学のようなものを、押し付けないのが大事ではないかと思えた。
そのために、自然を知るということがますます必要になる。

まさに、宮崎駿が「もののけ姫」で「祟り神」や「ダイダラボッチ」で示したことや岩明均が「寄生獣」で示したことにちがいない。

私たちは、自然に手を咬まれ(アシタカや泉新一は手を咬まれる)、自然の未知と威力を「畏怖する」感覚を取り戻さねばならないと気づいたのだろうか?

人間は人間として、そのような未知への畏れを持つ必要があるだろう。

だから「神」の視点から「人間は、自然のために邪魔だから滅びるべきだ」とは言えない。
人間は「神」の視点も「動物」や「ウィルス」の立場にも立つことはできない。
立てると思ったらそれは行き過ぎではないだろうか。自然や神を例え話にしたりはするが、本当はわからないのではないか。
それを「わかる」とし、神や「自然」の立場から一人間が人間を裁くことはできないだろう。
だから私は一人間として、コロナ禍から人間が命を守るという立場に立つ。
必ず弱者やマイノリティーが被害を受けるのに、それを高みの見物して、コロナ大丈夫を吹聴するトランプのような気持ちにはなれない。

私たちは自分たちの命を守り生きていくしかない。それは、科学や言語というやり方ではあるかもしれない。まだまだ私たちは自然の意味をそのように客観化し言葉にしなければならない。
そんなものは面倒と思う人がいるかもしれないが、しかし、新型コロナや放射能の危険を誤魔化すニュースに振り回される私たち地球人はまだまだ、言葉と科学によらなければ、知識を会得できる段階かもしれないからだ。
言葉や科学にたいして直接性や体験が賞揚されることがあるが、自分の体験できる範囲は限られているため、シェアのための、言葉や論理は必要である。

知識を身につける過程で、自然を畏れ、自然との適切な距離関係を測り、お互いを命として、畏れ敬う文化が育つ必要があるのかもしれない。
それが、新たな環境保護の精神かもしれない。

これは新しくて古い宗教的な課題である。

【詩作品】禁忌

 

 

始めから
悲しみがあったはず
やと
思っていて
ようわからん
ホンマはどうなんやろか
わからん
だけどそんな気する
知らん間に

 

その悲しみに
ひたる時間
気づいたらそうなってる
頭がぐるぐるして
知らん間に
半日過ぎて
浸っても
近づかれん
空気

 

それが心の
ふるさとに感じられて


そやけど
生きるために
ふざけてみる
目を逸らしてみる
でも
なんか変
ホンマの感情は
向こう側に
あるみたい

 

凍りついたマナザシの
向こう側の
橋の
田んぼの
もっと向こう側の
切ない寝倉

 

私はそんなとこに
住んでなかってんけど
夕焼けが沈むとき
本当に
たった1人に
感じられて
なんで
そんな1人
怖いんか

 

夜が来る
空気の
冷たさと
鋭さが
怖いねん

 

怖いねんけど
それが欲しい
喉が詰まって
息を潜めて
草や川の匂いが
あたりを包んで

 

いつの
どこのことでもない
どこでもない場所やねん
そやけど
そこにまだ私が
いてる気がすんねん
でもその感覚には
近づいては
ならん気もするねん
毎日それでは
生きていかれへんから

 

でもそこに
狂おしいほど
帰りたいねん
でも
どこにもないし
帰ったらあかんねん

それが生きるということ
やと
私は習ってんけど
ホンマは
そんな授業もなかったし
親が禁じたことがない

 

 

けど
凍りついたマナザシで
夕方から夜へ
張りつめた
気配が漂う向こう側に
私は帰りたい
帰ったらあかんから
それは
白昼夢になり
閉じ込められ
張り詰めた
思い出となり
近づくことも
近づかないこともできず
記憶さえ
曖昧で
私は殺されそうで

【詩作品】思考呻吟

何かを考えていて
その考えは
クシャクシャと
丸まり
そこらへんに
放ったらかす
だけで
まとめる気力も
昔に比べれば
ない
昔からたぶん
まとめたり
まとまったり
あまりできない
いや
全然できなかったから
前からか

それはたぶん
私がこだわりに固まって
いるからかもしれないし
思考の断片が
瞬間瞬間に
炸裂しているからかも
しれないし
私を貫く
宇宙のエネルギーは
私のような
ただの人には
受け止められず
ただ通過させる
しかない

机に座り
ひとり後ろを向いて
食事を摂る
誰も嫌わない
ただそうしている

こうして
一秒前から
現在に
命をつなぐとき
激しい眠気が襲う
とても頭が疲れる
私が考えても
たどり着けない
あなたがあり
それは
誰のことでもなく
すべてのあなたである

少し休むことで
ただ先送りし
罪悪感を
感じないように
新しい空気を
入れる

換気が大事といわれて
そうしている
外が私の回りに
滑り込む

破局の知らせが
ニュース速報で
読み上げられる
こんな毎日は
もうたくさんだと
思うが
たくさんだと
嫌気がさしても
どうにもならないので
もうたくさんって
なんだよと思う

いや
なにもかも足りない
鳥が冴え渡るように
鳴く
鳥のように
美しい声で
悲しみを
歌えたら

そんな願望がよぎり
なんとか
なんとかと
呻吟する

ゆっくりと
ご飯を食べている

 

【詩作品】夜の空気ー現代世界論

 

存在とは
不気味で軽薄なものだ
と仮定してみよう

 

気に障ることを私は
しゃべるだろう、その時に
私は恥じ入るよりも
速い速度で
あなたを突き刺しているのだろう
しかし私もあなたも
気の塊だ 
お互いなんだかわからないが
いつの間にか
言葉で触れあうのだ
恐ろしいね
嫌だね
それでも私たちは有限に 
過ぎない
無知でしかない
ものとして
世界にいるのだから
とにかく
自分の思ったことを
必死につかまえるしかない

 

夕方に
なぜ
こんなに早く蒸し暑くなるのだ
なぜこんなに
コロナは強くなったんだろう
ウィルスや細菌は
自分のいる環境が
変化すると
自分も変異して
力を手にするのだ
私たちは
その毒に刺され続けている
病院でさえ満杯になって

誰もが安心して

眠れず

政治への不満も最大
五輪の車は
転げる火の丸を描いて
脱輪し続けている
コロナで死にたくないが
コロナワクチンは世界初で
誰もが最終解を持たない

 

不安なままで考える
不安なままなら
ぬか喜びしたり
落胆したり
裏切られたりは
しない
暫定解しかない
それが世界

なのかもしれないし

私の苦悩が

誰に理解されなくとも
仕方ない

かもしれない

 

なぜなら考えることは
バクチのように
表に張ったり
裏読みして
逆に張ったり
するものではない

 

私の限界のまま
不安であること
恐れながら進み
恐れながら退く
毎日そうしている
もう限界?
まだ限界じゃない?
これはなかなかの試練。
現代の地球に対し
私の頭はとても小さい
小さくて
不安で怖くて
そんな存在で
仕方ない
仕方ないことがリアル


緑の木々をぼんやり眺めると
灰色の雲がよぎり

 

もっと大変なことが
地球環境破壊で起きるかな

 

水を飲んで

私はやることがない
語ろうとすると
先の見えなさが
痛みになって
増幅する

 

いつこんな風になったんだろう
寝そべって
困っている

 

僕のニュースは
気に障るニュース
ばかり
しかし
そもそも
気持ちがわからない

複数の善意や悪意が
暗い天井を
回りながら顔も形も
失い

 

怖くない
怖くないよ
大丈夫
怖くないよ
なんで私の魂を
麻痺させようとしている

怖がってるくらいで
ちょうど良いではないかと
私は吹き矢を打つ
様々な善意や悪意が
ちりぢりになる

 

私の部屋の空気が
夜の暗さを
運んできた