細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

新型コロナウィルスへの検査と再分配対策を怠り、無視することは、世界中の支援が必要な人々を、「優生思想的な」暴力に晒し、資本主義と国家の「社会的淘汰」の圧力をさらに増悪させることを人々は自覚しているか?

 

 

多くのひとの誤りとして、単に過小評価のみならず、表立って、ウィルスの危険について、積極的な表明をされていなくても、この危機に対処することはできないのだから、これは新しい危機なのだから、救済は難しいと思うひとは多いのではないだろうか。

国家や経済がウィルスに対して無力だというのは、私もわからないではない。
しかし、国家や経済が自力救済や競争によって成り立っているから、無力だと私は言いたい。

たとえば、私には心身の不調があるから、結果的にコロナの前から引きこもっている。
しかし、それは結果的に今は感染機会を減らす方に働いている。
まずこれは悪いことか?と。

また、心身が弱いとストレスや感染に脆いというのがある。脆いから気を付けるという話になる。
面倒な反面今の事態にはさらに必要なのだ。

つまり、今回のコロナ危機はたぶん、からだの丈夫なひと、労働を基本においているひとに取り、たぶん、わかりにくいものだろう。

からだの丈夫なひとや労働を基本においているひとにとり、満員電車や風邪引いても薬を飲んで出勤するのが基本だろうが、満員電車や風邪薬を飲んで働くことは危険だ。
それはコロナの前からわかっていたが、ウィルスの存在でますますはっきりわかった。

お金がないから稼ぐしかない、養う、生きるためには働かねばならないというひとがいて、もちろん経済補償しないと休めないひとは多い。

そうであるなら、病気で私は働いて生きていくことができないから、年金をもらって親と暮らしているのだ。
私はコロナの前からそして今も大変不便だ。

ここでひとつわかるのは既存の経済、既存の労働はひとに過酷な競争と、戦力としての体力を強いるので、その担い手も不便や苦しみを我慢し、気晴らしでしのぐという形で搾取を受け入れさせられている。
最初は違和感に耐えて働いていたはずが、これは仕方ない、この中でいきるしかないという話になり、搾取者と被搾取者で、強力なマッチョ、自己責任、つまりは優生思想のサークルを閉じてしまう。

これはそのやり方ではダメだと、オルタナティブとして農業や自分で商いや取り組みを始めるひとにも襲いかかる。

なぜならスタンダードな資本主義適応から外れると、さらに過酷な波が襲い、オルタナティブを襲う。
オルタナティブも、市民運動も踏ん張らねばと、頑張ってしまう。

残念ながら必然的に体力のない人やマイノリティはどんどん置き去りにされる。

第3世界には、手洗いやうがいをする安全な水がない地域がたくさんあり、過酷な気象環境や政情不安もある。
この人々に対策が必要なのだが、対策を全世界的に考案していないと、つまりは、第三世界のひとに比べて私たちは贅沢なんだから、検査を控えようというのは誰のためにもならない。

また、「先進国」という社会も労働を維持する装置としてただ、医薬や福祉があるだけで、私たちのように、非定型的な疾患、障害をかかえれば、それにあったケアやサポートはない。
なぜなら、労働は優生思想を軸に組み立てられているからだ。
障害者を優生思想的に、労働に適した身体に近づけると、障害のケアではなく、障害の否定が起きる。

優生思想により組み立てられた労働のあり方も、ウィルスにより無力を露呈する。
ウィルスはどんなひとにも感染しうるからだ。
そして感染の結果起きる被害には歴然と違いがあらわれるが、それを人々は、からだが弱いから仕方ないとし、健常者社会が維持されかねない。
過酷な過密な都市環境もそうだ。
本当はこれは危険なのだが、特に日本政府は対策しない。

つまり優生思想や経済的淘汰の考え方は人間の地球環境的な本性に当てはめてはならない、無理のある考え方だ。

ならば、労働や都市のあり方を変えるまで、本当は政府が財を再分配しないといけない。
政府が稼いだ金ではないから。
検査や治療を施さねばならない。
からだの弱いひとが犠牲にならないために。
この整理ができないと非常な惨事が起きてしまう。
国家のヘゲモニーの維持や、文明の無力を塗り固めるために、対策をしないことで、ウィルス事態に対するはずの人間文明が「弱者は死んでも仕方ない」という優生思想や「本人の努力が足りないから死んだので社会や私たちには責任はない」という経済的淘汰の恐るべき猛威にひとをさらしてはならない。

しかし、ここで、日本政府のやってることは、検査を少なくし、見通しをなくさせ、自己責任にかぶせ、予算をなかなか出さない。

ここでも真っ先に死ぬのはからだが弱いひとなのだ。

(そして厄介なことに、高齢者や持病のある人が最大の被害を受けるが、若者や子どもも重症化しないわけではないのがこのウィルスの特徴だ)

つまり、対策をすることは、現在の社会的な弱肉強食、優生思想がしわよせてくる命への被害を最小化することでなければならない。

多くの政府が今までの社会はだめになりそうだから積極的投資を図るのだが、日本政府も日本政府のオルタナティブを探っていたはずのひとびとも、今までの社会の中の何かにこだわっていて、今コロナで危険にさらされるひとには対処ができないまま、自分たちも過酷なサバイバルに対処をしたり、目をそらそうとしている。

こうして常に国家や経済の破れ目が見えてくるのに、その視野のそとに遺棄されるひとと、全面的な助け合いに乗り出さないひとびとの、冷たい真面目さを私はみている。