細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

150年以上の「アンダーコントロール」としての日本を9年目の311に考えた

 

311について、感慨のようなものを述べようとしたが、違和感。
311から引き続いて、災害や現在の感染拡大が起きた。
いずれも、被害に遭った人々の命と権利を必死に守ろうとせず、政府や産業は、惨事便乗的な統制をかけ、対策にかかるコストを削っている。

私たちはあれからずっと、いやもっとまえから「アンダーコントロール」されていたのだ。
大日本帝国の戦時が継続されながら見かけだけの平和。
見かけだけの平和すら作ることを今や放棄している。

そのようなことが明らかになっている。その最中に、表面的な「忘れない」や「復興」という言葉が踊ってる風景に私は違和感を抱く。

戦後復興もこのような本質があり、死者や被差別者はバラックとともにコンクリートのしたに隠され、戦争の傷のある沖縄やアジア全体が視野から消されたのだ。

私たちは戦後何度も何度もこのような隠ぺいを繰り返した時代を「解放された時代」と誤解していた。
日本が覆い隠したものを、アメリカは、戦争として朝鮮半島ベトナムで引き起こした。
日本は、それが公害や会社人間としてあらわれた。
自ら獲得した解放ではなく、米ソの軍事的緊張の中で日本は日米の支配者から平和に似たものを与えられていた。
そこにはセットで、原発や日米軍事同盟がついてきた。

しかし、ともかく平和に似たものであれ、平和はだいじだろう、君も戦後生まれだろうとひとはいう。

確かにそうだが私はいじめや社会の息苦しさになんどころされそうになっただろう。

福島原発事故や、新型コロナウィルスで、私は小さな頃に似た絶望と苦しさを感じた。

出口のないまま、いつどうなるかまるでわからない、私のペースが奪われた感じ。

資本主義と国家主義の脆さや持続不可能性が、今やウィルスで明瞭に明らかになったが、そのあなをふさいでしまいたい政府や経済界の醜さ。
しかし、社会が崩壊すると、弱い人から殺されるのだから、それをなんとかしなきゃいけないアンビバレンツ。

大丈夫とか日本すごいとか、くだらない明るさに、目眩させられ、わたしはなんとかいきているだけなのだ。