細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

ディオニソス的な感覚で命や物質の運動を考えてみるとき、「正しい科学」の抑圧性、排除性が痛切である。

例えばニーチェやアントナン・アルトーフーコーは、人間の近代的な捉え方を解体した。

なれば、彼らは責任や権力や約束を否定したか科学を否定したかと言うと、そうではない。
むしろ、別様な科学、責任を創設したのだ。

例えば、アントナン・アルトーは、社会がゴッホを殺害したと言うのであるが、ゴッホと言う感受性のマイノリティを理解しない社会の責任を告発したともいえるだろう。

多数の人がみていない事実をみる人の孤立を私たちは常に見損ない、様々な関係性や微細なもののあり方に気づかない。
そこにも、私たちの世界があり、そこに応答する責任も実はある。

しかし、一枚岩にしか世界をみていない場合、責任や約束に対してそれを認めるか、相対化して問題を消去するしかないだろう。

そうすると、近代と脱近代の永遠のループから出られなくなってしまう。

ちがうのだ。
ニーチェゴッホアルトーが果たそうとしていた責任は、宇宙的な発想において、みるものをみ、聞くものを聞くことはでき、それを将来かならず、この現世の人びとに感じさせることはできると。

たとえば、ニーチェカフカは今日的な眼差しでみるなら、自閉症スペクトラム的である。
異常なまでの認識の亢進、過敏な神経の反応、かいまみえる克明で多彩な現象の変化。

これ自体が世界にあまねくちりばめられた様々な不可思議やズレを感受する装置である。

私はとうてい、ニーチェカフカに手が届かないが、自閉症的な感性はあるから、彼らよりは小さな形で、感じている。

それは人間は世界をつまりは傷つけると言うことを我が身の微細な認識で、からだごと理解してしまうと言うことだ。

私はそのような受苦の感覚が、放射能や新型ウィルスの裏にある人間のごまかしの政治、応答責任のなさを感じさせる。

そのような責任はむろんニーチェが論難した責任より、彼がディオニソスといったよりハイパーで、微細な感覚が乱舞する世界での責任である。

つまり、命の動き、物質の動きを過小評価せずあらゆる反応を肯定することをごまかす、統制的なリスクコミュニケーション的な過てる科学への反逆であり、本当は物質や命にビビッドに反応すると言う意味ではディオニソス的な受苦的な体や心の震えに身を委ねその震えがまるごと、この人間世界の罪障のありかをしめしている。

ディオニソスはそのような高次の責任や科学の眼差しの意味だろうと私は感じる。

もっといえば、健常者が作るフィルターを外して世界をみると言うことで、私はこれで、ウィルスや放射能の破壊性について考えてみていると思う。

 

私の場合フィルターを外すというより、ちがうフィルターをたまたま持っていたという話。才能とかではない。

他の人とずれていただけである。

それで生きづらいわけだが。

 

 

 

ちなみに、あらゆる防護を脱ぎ捨てて、わざわざ体を破壊すると言うのは、生の肯定ではありません。

わざわざやるのは、自暴自棄、自己破壊です。

不幸にして被害にあった人を差別しないためにも、自己破壊と、物質や命の様態を認識することを区別しなければなりません。

命を大切にすると言う視点がなければ、本当は被害にあった人の苦しみに寄り添うための身体が崩壊してしまう。