細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

【時評】私たちの社会体制の不自由を考えるー明るい戒厳という事態に至らないために

私たちの社会体制は、自由だと言い聞かせていけば、自由に見える面もありますが、それは意識に常に言い聞かせてるんです。

学校や会社で教わるということはつまり、意識に常に言い聞かせるお経を手に入れるということではあります。

では、病気になったり、失業したり、社会的なカタストロフに苛まれれば、そのお経から逃れられるか? そうではないです。 頼るものがなくなれば、お経はより強く鳴り響くようになります。

ナショナリズムとか偏見とかはそのように制度の中にある人もそこから出された人にも機能し増幅していきます。

ここから逃れるのは意外に大変です。

今の社会はネオリベラリズムという国境を超えた資本の運動による搾取が国家や自治体と協力して二重に私たちを締め上げています。

安倍政権や維新はその現れです。 しかし皆さんが迎えつつある改元天皇の即位、オリンピックも、そうです。 これらは、日本の経済危機、人口減、原発事故を、日本の住民の中でも特にマイノリティなどに押し付けるため、そのために、全体主義を生み出すための一連の官製イベントと言ってよいでしょう。

原発事故は日米安保体制による核開発のリスクを顕在化しました。 なぜなら日本は日米原子力協定により、米国の制限の下で、原発で出た核燃料の再処理によるプルトニウムの生成を許された国だからです。 原発は実は核兵器原料の開発手段だからこそ、あらゆる合理性を歪め、人権や環境を破壊しても進められています。 そのリスクを隠すために、被ばく影響が消され、復興のためのオリンピックという噴飯ものの話が出ます。 しかし、オリンピックだけでは、足りず必ずその前後に天皇のイベントが召喚されます。それは1960年のオリンピックと皇太子の結婚の並び方とよく似ていると思います。 オリンピックと天皇のイベントではナショナリズムは高まり、警察の警備が強化され、メディアは他の諸課題を報じなくなります。 これは国家と資本の連合による明るい戒厳のようなものです。

実は資本と国家は核開発というものがおそるべきリスクを持ち、到底容認できないものであることを手をたずさえて、国家の統治のために、隠そうとします。 これは原爆投下後の日米政府の結託による被害隠蔽でも似たことが起きました。 この背後には天皇の戦争責任の免罪があります。

原発事故以降も天皇、米軍、自衛隊のプレゼンスが高まっています。

新たな戦争体制と、経済的社会的危機は マイノリティに負担を押し付け、まさに静かなジェノサイドが行われていく恐れがあります。 ここでは政府が作り出すナショナリズムが高まり、排外主義をベースに天皇自衛隊、米軍のプレゼンスが高まるでしょう。 私たちは歴史によく学び、日本の社会体制が責任と道義と人権を作り出せるよう、よく考えていく必要があるでしょう。