細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

障害を認識する、互いに尊重するということを一段踏み込んで捉えないと、善意でも差別になりうるということ

 

「障害者差別」というレベルではなく、障害者という「階層」に押し込められています。
それが日本の大半の障害者が置かれてる苦しい現状だ。

その事実を指摘すると「気のせいだ」「贅沢言うな」「個性なんだからいいじゃない」「自己肯定感をつけなさい」と的外れな反論が保守からもリベラルからも帰ってくるので、やはりマトモに考える気はないんだと。

私は別に好きで障害があると言ってるのではなく、個性的で面白い部分もあるかもしらんが、歴然と生きづらさは体験してきたし、それは「君が変な奴だから」「難しく考える人」とされてきたから、自分はそうでしかありえないないのだから、社会ももっと生きやすくなってほしいと、それを障害だと言ってる。

「気にすんな」とか「個性的」とかで話を済まそうとする人は「障害」というのが否定的概念だと気づいてます。しかし本人が気にしなければ、自己肯定感を高めればなんとかなると思ってる。
違うんです。本人がありのままで生きづらいとき、その社会の不十分さ、差分を「障害」と呼んでますね。

すべての特性の人に社会が合わせられるかはわかりませんが、不自由する人がいる、特性を生かしきれない人が莫大にいるということを企業や政治家は認識すべきです。
今のままでは、誰も楽しく生きていけません。

障害は社会のせいか自分のせいかという単純な話はしてなくて、差別ではないかと言ってます。
認識論的社会的心理的様々なバリアが障害者と社会の間に形成されている。
その形成されているものを解体せずになかったことにしてはいけない。

つまり互いの置かれた状況が違うという前提を持たなければなりません。私だって、ある時ある人には障害者かもしれないが、ある人に対しては強者として振舞うことがある。
で、私はうまく配慮できない特性だから神経をとがらせてやっと人並みです。ある部分では突出さえしてるかもしれない。

私は生まれ育って、親が障害者扱いしたことはありませんでした。親は自分の子を悪く思いたくないのと愛情と両方で、普通の子どもとして育てました。
しかし、微妙な違いが育つ中で顕在化し、いじめられっ子になり、感受性も敏感すぎ、心を病んでしまいました。

いじめられたり、病気になっていく過程で、いろいろ、他人が感じない痛みがあることがわかった。もともとの特性を直視してケアしながらでなければすぐにしんどくなることもわかりました。

最近では親も少しわかってくれるようになり少し安心してます。